のである。
お嬢さんという境遇にいる若いひとが、この頃は自分たちにつけられるそういう呼び名を嫌って来ていることも面白い。何かそこに安住していられないものがあって、もっと虚飾のない、むき出しの、だが愛らしくぴちぴちした娘という響を自分たちの若さの表徴とする好みになっている。お嬢さん、と云われることのなかにおのずから重苦しく感じさせられる境遇の格式ばった窮屈さや、どこかでその力に従わせられている自分への反撥として、より簡素な娘という云いかたへの趣向があるのだと思われる。実際の条件がそれでどう変化しているかは兎も角として、私は娘なのよと云うとき、そこには若い女性としての自分の生活の領域が主張されている。
職業をもつことを、大抵のひとが自分たちの若い時代の生活に結びつけて不思議としていない今日の心持も、やはりこのお嬢さんぎらいの感情と共通の根をもつものだと考えられる。それぞれの程度で学生生活が終ったら、そのつづきで職業が持たれて行っている。就職のくちが割合どっさりあるということは今日の社会の条件からおこった需要で、各方面へ婦人の進出をもたらしているのだけれども、それらの職業についてゆく娘さんたちの内面的な動機にふれてみれば、婦人の技能の拡大のためという建て前からより、職業でも持てば、とそこに予想される自分の娘としての生活の何かの動き、何かの自立性への希望からだと思える。幸福を求めている気持を親にばかり託しきれず、一人の娘として世間との接触のなかにそのきっかけをも捉えたい心持が潜んでいるのではないだろうか。
よく婦人雑誌に出るこの種の働く娘さんの、経済のやりくりを見ると、職業との結びつきの本質がまざまざと語られていると思う。こういう人たちは、自分たちの小遣帳に大きい買物、小さい買物という部をわけている。小さい買物だのお茶をのんだり映画を見たりすることは、自分たちの月給でまかなっている。大きい買物というのには服、靴、ハンド・バッグ、帽子その他が入れられるのだが、これらの大きい買物はみんな親に出して貰う。そして、その金額についてはひとしく沈黙が守られている。そういう基本的なところをまかせている生活態度について深く考えるということもないらしく、自分だけでは解決されているのだから、働く婦人として受ける報酬という社会的なこととして、それが足りなければ足りないことが考えられることも
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