て読むと切ない気がした。片親だけで子を育てる母たちが、勝気になり気質が外向性になる、といわれていることが実際であるとして、かりにもしその女親の境遇のあらゆる事情が今の世の中で女のありようと全くちがうほど進歩していたら、それでもなお女の親たちは勝気や男まさりで自分の気質をゆがめられるというようなことが起るだろうか。父親がない子だからと、ひとにからかわれまいと精一杯の善意でうごく女の心さえ、それなり健全な影響を幼い子の上におよぼすとはいい切れない。
産めよ。殖やせよ。この頃のその声である若い友達はあまりああいわれると何人生んでもどこかで何とかして貰えそうで、変に安心して生めるような気がするから不思議なものね、と笑っていった。
結婚資金の貸し出しや多産のひとに奨励金の渡されることや、それもいいことだろうけれど、今日の社会で母という立場が女に負わしている種々雑多な条件について、女は自分からもう一歩あゆみ出た日頃の分別を持っていなければならないのではなかろうか。
職業について働いている婦人と家庭の女のひととは、別々のもののように女性自身が考えていて、いざというときは現在家庭にいる女の生活がやはり現在職業についている女のひとの生活と全く同じ土台に立ってたたかわれて行かなければならないという事実が、何となしその感情から失われていることを、私たちはもっとまじめに自省していいのだと思う。家庭へ入れば、そこの窓越しに外で働いている同性たちの姿を見て、あるときはいささか批評がましい眼つきをもする。何事かあって、生活のため母として働かなければならなくなったとき、そういう今日までの女の心は、外へ働きに出るという先ずそのことで悲壮に緊張し、独身で若い同僚たちへ過敏に神経もふれてゆき、いつしか悲しいまけん気もその肩つきに見えて来る。働く女の経済条件ということに対しても、家庭の婦人たちは、ひとごとめいた気分でいるのではなかろうか。自分がそれだけしかとれなくて、どうして子供を育ててゆけるだろう、ということを実感でうけとって、見ている同性が幾人あるだろう。
日本の女の健気さについて、日本の男のひとたちは、あらゆる場合それを世界に誇って来ていると思う。日本の女性の忍耐づよさが世界に冠絶していることも周知である。
母の力とその誇りについて、私たち女が全幅にそれをわが現実として肯定したく思っていることは疑いようもないと思う。だけれども、女がほんとに社会的な力量完備した母である自分を見出すということは、今日誰もが到達している境地だとはいえなかろう。社会が母という名に向って示している敬意と、女がとりも直さず母なのであるという事実に立った母性の保護が、社会の全面にゆきわたっているとはまだいえない実際は、現在女子労務者たちが改善を切望している点が、賃銀関係ではなくて、むしろ作業条件と厚生施設に関するところにある事実に現れている。私たち女性は、そのより高い統一のために小さい善意をも根気よく加えてゆく具体的な熱心がいると思う。中央協力会議に参加する女性代表の活動もそこに根本の焦点が置かれるのだと思う。
底本:「宮本百合子全集 第十四巻」新日本出版社
1979(昭和54)年7月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第九巻」河出書房
1952(昭和27)年8月発行
初出:不詳
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年5月26日作成
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