若い母親
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)暢気《のんき》
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 今朝、茶の間へおりて行ったら、いつものように餉台の上に新聞だの手紙だのがかさねておいてあって、朝の日かげがすがすがしい。裏から勢のいい洗濯の水音がしている。それをききながら、来ている手紙を一つ一つ見ていると、その中から黒枠が出て来た。私のところは社交的なつきあいというものは少いから、黒枠は何ごとかと視線のあらたまる思いでうちかえし読んで、覚えずまあ、どうしたことなんだろう、と歎息した。その不幸の通知はある出版社につとめていた人の死を報じている。私はそこの用事を通して知り合った人であったのだけれど、この数年間割合にちょくちょく会って、何となし仕事とはべつに生活の一寸した話などもし合う間柄であった。私の心を一層傷ましめるのは、その黒枠の通知に父某とまだ若かったその人の訃を告げているのが、去年初めて生れたばかりの坊やであることである。二つの男の子が、そうやって無心なうちに自分の立場というものをきめられ生い立ってゆくにつれては、まだ若いそのひとの妻、坊やの母さんの生活ということが私たち女の心にまざまざと映ってきて、気の毒にたえられない心持がする。
 亡くなったひとは、その坊やをしんから大事にしていたし、ほかの友達の身の上におこった場合についてみても、そのようにして若い母とのこされた子供が、女の子か男の子かということでは、現実の条件がなかなか複雑にかわって来る。妻であり母であるその女のひとの真情に作用して来る外部からの力も、そのひとが男の子をもってのこされたという事実で、女の子一人というときとはおのずとちがって来るのである。
 そのことは、ことごとに私たちの日常の間で感じられているけれども、ついこの二三日前、弟のところで赤ちゃんが生れるについて、私たちがその名前を考えてやる役にまわった。家としての初孫だから、私の姑にあたる年よりもたのしみなわけで、子供をもたない兄息子夫婦に、名をつけさせようと思いついたのでもあったろう。
 私たちも珍しくさやいだ気持で、あれこれ案を出しあった。女の子の名というのは、いくつか思い浮んで候補にのぼった。ところが男の児の名となると、容易にこれぞという思いつきがない。名として面白いし、いいのだけれど、その子の生れる田舎の習慣で、ある字は余りつかわないとか、そんなことまで条件に入って来て、男児安産の電報をもらって大いにあわてた。まだ、名の方が決定していなかったのである。
 暢気《のんき》なような責任の重いような気持で、紙の上へいくつも名を書いて眺めながら、私はしみじみ日本の習俗が、男の子と女の子とを区別して来た意味の大きさを感じなおす心持だった。
 男の児の名が何だかむずかしいのは、その家にとって最初の男の子というものにかけている周囲の心持の反映だと思うのであった。おばあさんはおばあさんなりに、若い父親は父親なりに、もし男の子が生れたら、という瞬間の気持にこめている内容は、もし女だったらばという期待と決して決して同じでないから、ひとりでに、名もむつかしくなって来るのにちがいない。
 名前を考えるのがそんなに骨が折れるのは、まだ生れていもしない、従って人間としての性格も見当つけようもないような男の子という観念をめぐって、周囲の者がそれぞれの心で考えられるいろいろさまざまの社会生活の可能、ひろがりを思い描くから、変につかみどころなくむずかしくなって来る。
 女の赤ちゃん、と思ったとき、ぐるりの心に映る内容は何と単純だろう。女の児というと、もうそう生れたということにあるところまでの結論が現れているようで、名もやさしく自然につけられてゆくようなところがある。
 それでいながら、女の一生の現実はどうかといえば、女として自分の生涯が平安に保証されていると何人がいい切れるだろう。こうやって、いい結婚生活に入って、丈夫で風邪もひかない男の児をもって、迎えられ送られていた一家の明暮から、思いがけず良人を喪うという不可抗の不幸もおこって来る。そして、決定的にその女のひとの日々はそのことから変ってしまうのである。健気《けなげ》に立派にのこされた子を守り育て終おせたとしても、その間にひそかにその女のひとの頬を流れおちた涙は、そのひとの心に痕をのこさないということはない。
 この間、母子寮に暮している洋子ちゃんという十歳の女の子が、よその男につれまわされて、幸い無事に発見されたという事件があった。その当時、帝大の教育学の助教授が批評をして、母親だけで育つ子供のこうむる特別な精神上の傾向をその子も持っているために、そういう事件もおこったと世人の注意を喚起していた。
 その談話は、その面で正当なことが語られているのではあるが、女とし
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