間が幸福に生きたいという本能は一つの主題です。この主題は現実の社会のいろいろな条件と絡み合って変化してあらわれております。幸福の内容も、現代では非常に豊富ですから幸福になってゆく道も単純でありません。人間はまず腹一杯食べたいというなら、それはどう食べるかということを考えるところまで、現代の歴史は進んで来ています。人のものを掻払って食べるか、身を売って食うか、人をだまして食べるか。或は人間には全くそういう風でない、人間には生きる権利があるということを、社会的に具体化して、それで全人民が食べられるような社会の仕くみにしてゆこうと考えるか。何でもいい、自分さえたべられればいい、それでは、犬や猫に劣ります。犬や猫には、社会的感覚の自覚がないんですから。
所有慾が、人間の動かし難い本能と考える人もあるけれども、それでさえ、生きてゆく社会の事情で変るんです。現実に変るんです。何故所有慾がつよいかといえば、自分がそれを持っていなければそれを使うことが出来ないからです。風呂桶一つについての私たちの感情でもよくわかります、昔の人たちは自分の家に風呂桶ぐらい一つもっていなくては生活でないと思った。今日わたしたちは、自分の家に風呂桶がなければならないとは思っていないと思います。それより、こんなにわるい銭湯の状態が、もっともっとよくなることを切望しています。自分のものでなくても、自分はじめみんなが衛生的に気もちよくつかえる銭湯をもちたいと、どんな方でもおっしゃると思います。ある区会議員の選挙演説では、当区内の浴場をぜひよく致しますといわれました。こういう選挙演説がアッピールするのは、みんなの要求がそこにあるということの明瞭なしるしです。風呂について、わたしたちの感情は所有慾から利用の慾望に発展して来ているのです。この講堂を、ここに来ていられる方の誰が所有したいと思っているでしょう。いい病院がほしいということ、いい図書館がほしい、いい託児所がほしい、というわたしたちの希望は、それを自分の所有として、私有の財産として登記したい心もちとはちがいます。社会のもの、みんなのものとして、そういうものがあればよい。現在金もちだけの便利におかれている社会条件を、そういう便利のものにしたい、と思っているわけです。
ですから、さっきの親子の関係でもわかるように、家庭というものが本当に社会的保障の上につくら
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