たのよ、とあとつけ、よく笑ったものでした。それほどはっきりした印象としてのこったのは、下村観山氏が漫画をかいてロンドンから送って下すったからでした。いくつかコマのある続き絵で、その当時の流行で髭を長く尖らした若い父が気取って山高帽をかぶり自転車のペダルをふんでいる。むこうから女のひとが犬をつれてやって来た。それをよけようと四苦八苦してバランスをとりそこねている父。遂にころげ落ちた父が、哀れややっと起き直って前方を眺めると、自転車ばかりが非人情にも主人をのこして遙か彼方へ進行している。そういう絵がペンとインクで描いてありました。
子供たち私共は、その絵ハガキが大好きで父がかえって後も度々出しては見たものですが、母は、ほんとにいやだ、とか、あぶないのに、とか云ってそうよろこびませんでした。今になって考えれば、三人の子供を育てながら、経済的苦労を辛棒しつつ五年の間留守をしていた母の心持は複雑であって、山高帽をフッとばして自転車から落ちたりもしているロンドンでの父の暮しぶりに対し、単純な笑いを爆発させることは出来なかったのでしょう。父の気分も、母の心持も、味い深く感じられます。
[#地付き]〔一九三七年一月〕
底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社
1981(昭和56)年3月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十五巻」河出書房
1953(昭和28)年1月発行
初出:「中條精一郎」(追悼録)、国民美術協会
1937(昭和12)年1月発行
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月15日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全4ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング