を叙し、しかも根本を貫いている思想は、自然への逃避を志す東洋的態度の旧套を脱せず、人間と自然との二元的な相対の中に道徳的、哲学的感慨をこめているのである。ロマンティストとしての蘆花がよく現れている。田山花袋は、この前後に発表した「田舎教師」の中で、まことに根気よく、水彩画のように利根川べりの自然を描写している。「田舎教師」をよむと、写生文の運動というものが日本の文学の発展のために益した点がわかる。少くとも自然を描こうとする感情の中から余計な支那的誇張、風流の定型、哲学的衒学を洗いすてようとしたことからだけでも、写生文の運動は相当評価されるべきであると思われるのである。
 現代の文学において、自然というものは、きわめて特徴的な歴史的地位におかれていると思う。文化の都会集中的傾向は富の都市集中を社会的根底とするから、文化機関の都会集中を結果した。職業的作家の大多数は都会に住んで、都会的な文学を生産している。従って、文学における自然の範囲は、街頭、公園、近郊に多くとどまっており、あるいは通俗小説の場面としては落すことのできない近代スポーツの背景として北国の雪景、またはドライヴの描写としての京浜国道がとり入れられ、いずれにせよ、大部分享楽的消費的生活雰囲気との連結におかれている。このことは、菊池寛氏の小説においても否定し難く顕著なのである。
 ところが、他の一方には、同じ東京という一つの都会であっても全く異った自然の眺めをもち、あるいはほとんど自然のながめと呼ぶこともできないような煤煙だらけの空、油の浮いて臭い河面、草も生えない泥土の中に生きているおびただしい勤労生活者の人生がある。ここの中から過去の歴史になかった文学が生れはじめている。安らかにそこで休安することのできるような自然らしい自然を持たない民衆の生活の闘いから誕生する文学が、現れはじめているのである。その文学の中で、自然の美は当然最小限にしか、その断片しかありようがない。自然が、歪んだ社会条件でどんなにひどくきりこまざかれているかという、その姿がある。
 では、とかく牧歌的な空想をもって文学に扱われて来た田舎ではどうであろうか。これに答えるのは、今日の農民の貧困の現実がある。農村の生活で自然の美を謳うより先に懸念されるのはその自然との格闘においてどれだけの収穫をとり得るかという心痛であり、しかも、それは現代の経済
前へ 次へ
全7ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング