段階においては、純粋な労働の成果に関する関心ではなくて、債鬼への直接的連想の苦しみなのである。せんだって私は信州に数日暮し、土地の新聞を見て、深く感じた。信州は養蚕地であるから、本年の繭の高価は一般の農民をうるおしたはずであり、例えば呉服店などで聞けば、今年は去年の倍うれるという。しかしながら、新聞は、繭の高価を見越し、米の上作を見越して債権者はこの秋こそ一気に数年来の貸金をとり立てようとしているから、それを注意せよ、当局もそこから生じる紛争を警戒している、というのである。農民は今日の社会的事情にあっては、実った稲を見て、その美しさを賞するより先に、費された労力と迫っている懸引とのために覚えず歎息するのである。自然の山野はたしかに村のあちこちで美しいとしても、その美しさをそのままに感じ得ない事情にしばられている人々の胸から、のびのびとした豊かな自然の美を描く言葉はきかれないのが当然ではないか。自然のあらあらしさがどのようであろうと、農民にとっては債鬼のあらあらしさの方が重大となっているのである。
日本文学の一方で、自然の美は消費的対象として扱われて人為的に衰弱的となりつつある。他の一方には、現在にあっては自然を愛しよろこぶゆとりを与えられない大衆が、社会的事情のよりよい条件の獲得とともに、自然をもとりかえそうとしている文学が存在している。眺め、そしてその中に逃避するための自然ではなく、人間と自然との健康な科学的な相互関係をとり戻し、自然を人間の幸福の源泉として、物質と精神との上に最大の可能さで価値を発揮させようという方向に努力している文学が、本質的な対立をもって立ち現れている。これが、今日の文学における自然というもののありようである。そして、最も興味あることは、かような健康な自然との関係がとり戻されたとき、私たちはその自然の中に人間の進んで来た足どりをまざまざと感じることで、ますます美感を複雑にし、豊かな喜悦を感じることである。今日のソヴェト文学作品のあるものは、「私は愛す」のように、新たな人間関係の美とともに自然と人間との相互関係にもたらされた深い鮮やかなよろこびの感覚を描きはじめているのである。
底本:「宮本百合子全集 第十巻」新日本出版社
1980(昭和55)年12月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「
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