れらの事情をかえりみると一緒に、わたしたちは真面目に一つのことを反省しなければならないと思う。それは日本の封建性の圧迫をつねに感じていて、そのために感受性が異常になっている日本のインテリゲンチャの間には、一九二八年以来、奇妙な自己撞着があるということである。その自己撞着は、いつも自我の解放、個人の運命の自由な展開ということについて熱心に念願しながら、いざその実行に立たなければならないという時には、きまって何かの影におびえて動かないような理窟を見出して来たことである。
ちょっと見ると不思議に思えるこの現象は、人民戦線時代の文学の論争を見ても明瞭である。社会主義リアリズムの論争についても微妙な特色となっていた。そして今日、またこの苦しい自己撞着が自我の確立の問題についてあらわれている。
わたしたちは率直にならなければならない。わたしたちの求めるものを、真実に求めなければならない。日本と中国の新しい民主主義が歴史の深いたたみ目をもっていて、民主化という一つの言葉の中に、ヨーロッパの二世紀と今日のもっとも前進した民主主義とを包含しなければならないという歴史を否定しないならば、自我の問題も世界史のこの雄大なプログラムにしたがって解決してゆかなければならない。
発展と成長とのおさえがたい力を信じなければならない。夜の間にも動いている歴史を見透さなければならない。人間の愛情を見るとこのことはよくわかる。小さいこどもが歩きはじめたとき、その親やぐるりの人は何といって見るだろう。今はヨチヨチ歩きの段階だから、この期間は完成させなければならないといって、もっとよく歩けるようになる日のために、下駄やくつをよろこびをもって用意しないだろうか。
わたしたちが人間を愛し、その価値を評価する意味で、自分と人との「自我」について考えるとき、その自我の最大発展の可能を希望することはへんだろうか。歴史がその複雑さでわれわれの前に示している最大の可能にまで、自我を発展させ成長させ、新しいものにしてゆく機会をつかもうとすることは幼稚なことだろうか。
人間が変革されなければならないということは、人間を変革し得る社会をもたなければならないということを常識とするまでに、一人一人の心の中で半封建的であった日本の社会感覚が変革されなければならないということである。この生きた厳粛な相互関係をぬきにしてわたし
前へ
次へ
全3ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング