りきたりの先生気質をいくらか知った上で考えれば、こういうことにしろ、決して誰でもが自分の生徒のために計ってやる態度でないことは明かである。
当時、年のへだたりなどということが念頭に微塵も浮ばなかったほど、私にとって千葉先生は敬愛すべき方であった。だが、恐らくは、女高師を卒業して一年か二年という頃、先生のお年は二十五六から七八という時代ではなかったのだろうか。そして、思えば、先生がいつとはなしに私に及ぼしたああいう深い人間的な感銘と、よりよい人生への願いはとりも直さず、若かった先生が御自身の女性としての生涯にも衷心から求めていられたものではなかっただろうか。
人及び女性としてのその真摯な希望は、強烈な何ものかを内部に蔵していたこの一人の私たちの尊敬すべき先輩の今日の上に、どんな花をさかせているのだろうか。
大正の中頃からのちの激しい時代のうつりかわりと、その間に転変した女性一般の生活の大きな変化は、千葉先生と私との間をもいつとはなし吹きわけることとなった。どちらもそれぞれに結婚もした。先生はそれより前にどういう事情でか学校をやめられた。極めて自分だけのこととして結婚もされ、現在は、私のところまで御消息はつたわって来にくくなっている。そこに、何か私たち女の生活の推移を暗示する、無限の余韻を感じずにはいられない気がする。先生よ、幸にお健やかでしょうか。
師といえば、私の作品を初めて紹介して下さった坪内逍遙先生のこともふれなければならないわけである。
坪内先生とは余り年代がちがいすぎていた。それに私としての結ばれかたが他動的であったことなどから、外面には大きくかかわりながら、語るとなると消極なあらわれかたになる。流達聰明な先生の完成された老境というようなものと、私の女としての四苦八苦のばたばた暮しとは、我ながらいかにもかけちがった感じだった。
その親にたのまれて一二回作品を見てやったというだけの若年の娘にも、先生はお目にかかるかぎり懇切丁寧で、ふさわしい親切をもって対して下すっていた。しかしながら、その豊富な経験のなかでは、自身創立された文芸協会で、抱月と松井須磨子の二つの命をやきつくしたようないきさつに接して居られる。また、一度はそこで女優になろうとして後作家となって盛名をうたわれ、幾何もなくアメリカに去った田村俊子氏の生活経緯を見て居られることもあって、女性
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