いのだ、という真面目な鼓舞を感じるのであった。
四年になってから、もう一人、やはり人間らしい真直な気持よい視線で生徒を見る先生が出来た。堺先生と云って国語の先生であった。この先生も、曇りない真実のある眼で、国語の時間は張合があった。何をどうとも云えないが、面白いという思いがその先生と自分との間を交流するようで、私はいつも謹んで一生懸命であった。
五年生になって、千葉先生は教育をうけもたれ、心理学の講義がはじまった。ごく初歩の概論だったにちがいないけれども、この学課の興味は全く私を熱中させた。初めてここで、学校で学ぶことと自分の生活全体の関心とが相通じる一点を持ったようで、私の文学的読書も段々奥ゆきをもちはじめた。その頃はもう「白樺」の影響とトルストーイの作品が私の成長の糧で、千葉先生には、課外の読書のことで放課後、たまに三十分ぐらい話を伺うようになった。
先生は、いろいろのことを考慮してであったろうが、余り私的なことや感情問題にはふれず、単純に本の話をされた。そして、その本の選択については、年だとか女生徒だとかいうことにかまわず、いきなりこちらの知識慾の理解力とにたよって、教えられた。一つの本からひき出された新しい興味によって、又その方へ読書をひろげてゆくという風で、小説のほかのいろんな啓蒙的な科学・哲学の本をよむことが出来た。
今思えば、貴重なのは決して、そうやって読んだ何冊かの本の知識ではなかった。一人の人間の裡にある可能を十分にのばそうとする千葉先生の偏見のない若々しい誠意が、私のうちのまともなものを急速に、よろこび躍るように育てて行ったのだと思われる。
それには千葉先生が担任でなくて、一定の距離と自由のある位置にいられたこともよかったのだろうし、また、若い娘の感情に通暁していて、常にある程度は整理した心持で、甘えず信頼することを学ぶようにされたことも、よかったのだろう。
女学校の最後の一年は、女学生らしくなかったとしても、本質的には実に勤勉によく暮した。著しい成長の時期であった。
女学校がすんで、目白の日本女子大の英文科の予科に一学期ほどいて、やめた後だったと思う。千葉先生と河崎なつ先生とが、桑田芳蔵博士の教室で心理学の勉強をされたとき私を仲間に加えて下すったことがあった。ヴントの本で、一寸した実験もやったりして、その本の終るまで通った。今日あ
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