事実にたって
――一月六日アカハタ「火ばな」の投書について――
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地付き]〔一九四九年三月〕
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はなしはちょっとさかのぼるが、一月六日アカハタ「火ばな」に「宮本さんの話」という投書があった。一月も六日といえば、選挙闘争に本腰がはいって、その日の紙面もトップに田中候補が信州上田で藤村の「破戒に学ぼう」と闘っているニュースをのせ、四日には「新春いろどる新入党」と作家・芸能人の入党記事はなやかだった。すべての記事が選挙闘争めざしてプラスに統一されているなかに、なぜポツンと「火ばな」が、ああいう投書をのせなければならなかったのだろうか。奇異なことであった。
選挙後、三百万票を得た党は、文化面でもひろく力を結集して文化反動とのたたかいに動きはじめた。あの投書は文学運動全体にもかかわりをもっているから、病気のために少しおくれたがこの際、一党員作家として、「宮本さんの話」はきいているうちはわかるが結局無内容で、小説は評判ほどよまれていない、むずかしい、わからないとされているあの投書について、事実を明らかにしておくべきであると思う。
投書にある十二月二十五日の講演会は政治と文学をテーマとして神田・中央大学に開かれ聴衆二千ばかりだった。そこでわたくしは、今日、日本に生きているファシズムについて話した。東條が処刑された翌日の新聞に、家族が父は死んだのではありません、生きたのです、最後まで信念を貫いたのですから、と語った。そのすぐあとのけさ(二十三日)大川周明ほか十九名が自由になったと知らされている。そのなかの一人である安倍源基は特高課長、警視総監、内務大臣と出世したが、その立身の一段一段は小林多喜二の血に染められ岩田義道の命をふみ台にしている。天羽英二は情報局長としてあんなに人民の言論と思想、文化の自由を根こそぎ刈った。
これらの戦犯的分子がまた再びわれわれの生活へまぎれ込んで来たことについて抗議したことは、投書のようにあしたになると友達に話すこともできず「一つ一つと逃げてゆく」話の内容といえるものだろうか。勤労人民の政治的文化的発言の一つのかたちとして、ファシズムとたたかう日常の方法として、職場、学校サークル内に通信員活動を提案したことはただふん囲気だ
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