理解している。そういうことも簡明であると同時にしなやかなその文章のうちにふれられていた。
 わたしは、その文章をごくあっさりとあわただしい僅のときのひまに読んだだけであった。けれども、不思議に、そこにたたえられていた若い精神の誠実さに感銘がのこった。三九年十二月に国際連盟はソヴェト同盟を除名し、ナチス軍はノルウェー、デンマーク、オランダ、ベルギーを侵略した。そして独ソ間の不可侵条約をあざ嗤《わら》って、ナチスの大軍がウクライナへとなだれこんだころ、わたしは、しばしばかつてよんだフランス女学生の言葉を思いおこした。不幸にも、ふたたびヨーロッパが戦場と化すようなことになるにしても、わたしたちの唯一つの考えかたは変らない。それは戦争は根絶されるべきものであり、世界は平和をもたなければならない、というあの言葉を。
 なぜなら、そのころ(一九四一年)パリにはナチスの旗がひるがえっていた。そして日本では新しく国防保安法が成立し、治安維持法が改正されて死刑法となり、アメリカとの戦争を計画していた東條内閣の下では、文学も軍協力以外には存在を許さない状態になっていたからだった。そのような状態におかれていた日本のどこからも――文学からさえも、一人の若いソルボンヌ女学生がかつて語ったような響きは伝えられなかった。不条理を喋るまいとする人々は沈黙させられるか、自発的に沈黙するしかなかったし、沈黙している人々は、めいめいの沈黙の座の上に静止していた。かつては、そのような思想のある静止状態が「東洋風」とよばれた時代もあった。だが、一九四〇年代に、そのように消極的に凝結した悪の防禦の形は、すでに「東洋風」でも「アジア流」でもなくなっていた。「日本にしか見られない精神と行動との麻痺の形」となっていたのだった。中国の知識人をふくむ全住民は、日本軍の侵略に抵抗して各地ではげしくたたかっていて、その「抗日救国」のビラやスローガンを通じて、中国のおびただしい文盲者さえ文字を知りはじめつつあった。

 このごろ、わたしはまたしばしば、かつて心に刻まれたフランス女学生の手記を思いおこす。そして、そこに示されていた彼女のつつましく堅固な信念を。――戦争は根絶されるべきものであり、世界は平和をもたなければならない。平和のとき、このことが云われなければならないとともに、よしんば戦争の破壊がおこってもそこを貫いて、な
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