で。
 三日の朝、早く起き、朝飯を終ると、私はわざわざ借りて来てある『大阪毎日』も見ず、二階にあがった。そして、机に向い、ペンをとり、仕かけの書きものを続けた。一晩寝て目を醒すと、昨夜は割合にはっきり安心のついていた人々のことが、却って腹の底から不安になって来ていた。気分が、陰鬱になった。どんな不運な機会で、私の愛する多くの人々が死んでいまいものでもない。会うまでは生死のほどもわからず、私としては、最も悪い場合に処しても我を失わない丈の考慮、覚悟は持っていなければならない。ふだんは、何となくぼやけ、人と人との感情問題等もそう切迫してはいないが、左様な大事に面し、其れがどう展開して行くか。自分の運命の在り場所が、深い、宏い海の底を覗き桶で見るように、私にわかった。遙かな東京の渾沌、燼灰、死のうとする人々の呻きの間から、私は、何か巨大な不可抗の力を持ったものが犇々《ひしひし》と自分に迫って来るように感じた。その気持を、ぐっと堪えながら、自分のすべきことは忘れまいとするのは、努力であった。
 午後から良人は福井市に出、大宮までの切符と持って行くべき食糧の鑵詰類を買い入れて来た。役場から、入京に必要だと云う身分証明書を貰った。そして、四日の午後四時五十七分、総ての荷物を郷里に遺し、ただ食糧だけを二人で背負う振り分けの荷に作って、福井を出発した。福井市の彼方此方では、当局者の所謂流言蜚語が、実に熾んで、血腥い風が面を払うようであった。もう二三十分で列車が出る時になっても、家兄は私の体を案じ、止ることをすすめた。私は、半分冗談、半分本気で、
「大丈夫よ。私はちっとも可愛くないから、これで髪をざんぎりにし、泥でも顔へぬれば、女だと思う者はないでしょう」
と、笑った。
 七時五分、金沢駅のプラットフォームに降ると、私は、異常な光景に目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》った。もう此処では、平常の服装をした人などは一人もいない。男は脚絆に草鞋がけ、各自に重そうな荷と水筒を負い、塵と汗とにまびれている。女の数はごく少く、それも髪を乱し、裾をからげ、年齢に拘らず平時の嬌態などはさらりと忘れた真剣さである。武装を調えた第三十五連隊の歩兵、大きな電線の束と道具袋を肩にかけた工夫の大群。乗客がいつもの数十倍立てこんだ上、皆な気が立った者ばかりだから、その混雑した有様は言葉につくせない。誰も自分の足許をしっかり見ているものなどはなく、又、押し押され、おちおち佇んでもいられない。上野行の急行に乗込む時は、人間が夢中になって振り搾る腕力がどんな働をあらわすか、ひとと自分とで経験する好機会であったと云うほかない。
 列車は人と貨物を満載し、膏汗を滲ませるむし暑さに包まれながら、篠井位までは、急行らしい快速力で走った。午前二時三時となり、段々信州の高原にさしかかると、停車する駅々の雰囲気が一つ毎に、緊張の度を増して来た。在郷軍人、消防夫、警官などの姿がちらつき手に手に提灯をかざして、警備している。福井を出発する時、前日頃、軽井沢で汽車爆破を企た暴徒が数十名捕えられ、数人は逃げたと云う噂があった。旅客は皆それを聞き知ってい、中にはこと更「いよいよ危険区域に入りましたな」などと云う人さえある。
 五日の暁方四時少し過ぎ列車が丁度軽井沢から二つ手前の駅に着く前、一般の神経過敏をよく現した一つの事件が持ち上った。前から二つ目ばかりの窓際にいた一人の男がこの車の下に、何者かが隠れている。爆弾を持った〔二字伏字〕に違いないと云い出したのであった。何にしろひどいこみようで、到底席などは動けないので、遠い洗面所その他はまるで役に立たない。その人は、窓から用を足したのだそうだ。そして、何心なくひょいと下を覗くと、確に人間の足が、いそいで引込んだのを認めた。自分ばかりではなく、もう一人の者も間違いなく見たと云うのである。
 初め冗談だと思った皆も、其人が余り真剣なので、ひどく不安になり始めた。あの駅々の警備の厳重なところを見れば、全くそんな事がないとは云われない。万一事実とすれば、此処にいる数十人が、命の瀬戸際にあると云うことになる。不安が募るにつれ、非常警報器を引けと云う者まで出た。駅の構内に入る為めに、列車が暫く野っぱの真中で徐行し始めた時には、乗客は殆ど総立ちになった。何か異様が起った。今こそ危いと云う感が一同の胸を貫き、じっと場席にいたたまれなくさせたのだ。
 停車した追分駅では、消防夫が、抜刀で、列車の下を捜索した。暫く見廻って、
「いない。いない」
と云う声が列車の内外でした。それで気が緩もうとすると、前方で、突然、
「いた! いた!」
とけたたましい叫びが起った。次いで、ワーッと云う物凄い鬨声《ときのこえ》をあげ、何かを停車場の外へ追いかけ始めた。
 観
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