念して、恐ろしさを堪えていた私は、その魂消《たまげ》たような「いた! いた!」と云う絶叫を聞くと水でも浴びたように震えた。走っている列車からは、逃げるにも逃げられない。この人で詰った車内で、自分だけどうすると云うことは勿論出来ないことだ。そんな事はあるまいと、可怖《こわ》いながら疑いを挾んでいた私は、この叫びで、一どきに面していた危険の大きさを感じ、思わずぞっとしたのであった。ぼんやり地平線に卵色の光りはじめた黎明の空に、陰気に睡そうに茂っていた高原の灌木、濁った、狭い提灯の灯かげに閃いた白刃の寒さ。目の前の堤にかけ登って、ずっと遠くの野を展望した一人の消防夫の小作りな黒い影絵の印象を、恐らく私は生涯忘れないだろう。列車の下から追い出したのが何であったか、それをどう始末したか、結着のつかないうちに、汽車は前進し始めた。
高崎から、段々時間が不正確になり、遅延し始めた。軍隊の輸送、避難民の特別列車の為め、私共の汽車は順ぐりあと廻しにされる。貨車、郵便車、屋根の上から機関車にまでとりついた避難民の様子は、見る者に真心からの同情を感じさせた。同時に、彼等が、平常思い切って出来ないことでも平気でやるほど女まで大胆になり、死を恐れない有様が、惨澹たる気持を与えた。一つとして、疲労で蒼ざめ形のくずれていない顔はないのに、気が立っている故か、自暴自棄の故か、此方の列車とすれ違うと、彼等は、声を揃えてわーっと熾んな鯨波《とき》をあげる。気の毒で、此方から応える声は一つもしなかった。
けれども、家の安否を気遣う人々は、東京から来た列車が近くに止ると、声の届くかぎり、先の模様を聞こうとする。
「貴方は何方からおいでです?」
「神田。」
「九段のところは皆やけましたか?」
「ああ駄目駄目! やけないところなし。」
又は、
「浅草は何処も遺りませんか?」
避難者の男は、黙って頭で、遺らないと云う意味を頷く。
「上野は?」
今度は、低い、震える声で、
「山下からステーションは駄目。」
猶、詳細を訊こうとすると、
「皆、焼けちまったよ。お前、ひどいのひどくないのって。――」
五十を越した労働者風のその男は、俄に顎を顫わせ、遠目にも涙のわかる顔を、窓から引こめてしまう。
浦和、蕨あたりからは、一旦逃げのびた罹災者が、焼跡始末に出て来る為、一日以来の東京の惨状は、口伝えに広まった。実に、想像以上の話だ。天災以外に、複雑な問題が引からまっているらしく、惨酷な〔二字伏字〕の話を、災害に遭って死んだ者の他につけ足さないのはない。死者の多いことが皆を驚した。話によると、命がけで、不幸な人々の屍を見ないでは一町の道筋も歩けない程だ。経験のある人々は、哨兵に呼び止められた時の応答のしぶりを説明する。徒歩で行かなければならない各区への順路を教える。何にしても、夜歩くのは危険極ると云うのに、列車は延着する一方で、東京を目前に見ながら日が暮てしまったので、皆の心配は、種々な形であらわれた。知る知らないに拘らず、同じ方面に行く者は、組みになった。荷を自分だけで負い切れなく持っている男は、自分の便宜を対手に分け、荷負いかたがたの道伴れになって貰おうと勧誘する。
順当に行けば午前九時十五分に着くべき列車は十二時間延着で、午後九時過ぎ、やっと田端まで来た。私共の列車が、始めて川口、赤羽間の鉄橋を通過した。その日から、大宮までであった終点が、幸い日暮里までのびたのであった。厳しい警戒の間を事なく家につき、背負った荷を下して、無事な父の顔を見たとき、私は、有難さに打れ、笑顔も出来なかった。父は、地震の三十分前、倒壊して多くの人を殺した丸の内の或る建物の中にい、危うく死とすれ違った。私は、鎌倉で、親密な叔母と一人の従弟が圧死したことを知った。まさかと思った帝国大学の図書館が消防の間も合わず焼け落ちてしまったのを知った。
段々彼方此方の焼跡を通り、私は、何とも云えない寥しい思いをした。自分の見なれた神田、京橋、日本橋の目貫きの町筋も、ああ一面の焼野原となっては、何処に何があったのかまるで判らない。災害前の東京の様子は、頭の中にはっきり、場所によっては看板の色まで活々と遺っている。けれどもその場所に行っては、焙られて色の変った基礎石の上から、あった昔の形を築きあげることすら覚束ない。狭い狭い横丁と思っていたところが、広々と見通しの利く坂道になっている様などは、見る者に哀傷をそそらずにはいない。心に少し余裕のあった故か、帰京して数日の間、私は、大仕掛な物質の壊滅に伴う、一種異様な精神の空虚を堪え難く感じた。
今まで在ったものが、もう無い、と云う心持は、建物だけに限らない。賑やかに雑誌新聞に聞えていた思想の声、芸術の響き、精神活動の快活なざわめきが、すーいと煙のように何処かに
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