ーリキイが困難な生活の間からこの人生に対してさまざまな深い印象をうけ、どうしてもそれを語りたい心持ちをおさえられなく小説をかき始めたのは、かれの二十三の歳であった。以来三十有余年の間にゴーリキイの作品は世界の人々に読まれ、また次から次へと新しく成長して文化の担い手となってくる若い人々にこの社会の発展の可能性を信ずる心と、屈辱とたたかってゆく勇気とを与えているのであった。
ゴーリキイがイタリーからモスクワへついた時、あまりのまごころからの歓迎に感動して、暫くは挨拶の言葉も出ず、殆んど涙をおとすほどであったということは誰知らぬものもない。
モスクワはもちろん南ロシアの方までも巡遊した後、ゴーリキイはレーニングラードへやってきた。かれが宿ったヨーロッパ・ホテルにちょうど私も泊りあわせた。だいたい私は名士訪問ということはきらいであるが、このゴーリキイにだけは会ってみたかった。
そこで小さい紙片に下手なロシア語で、一人の日本婦人作家があなたに面会したいと思うが時間はあるだろうか、若し会ってくれるのなら都合のよい時間を教えてくれとかいてやった。ゴーリキイは簡単に明日九時頃に待っていると答えてよこした。
その時間に私はゴーリキイの宿っていた部屋の扉を叩いた。窓の二つあるさっぱりしたその室内には何も特別なものがなく、ただ私より先にきた誰かと話しながら食べて、そのままそこに忘れられているようなトーストが一ときれ皿にのってそこのテーブルにある、それが印象にのこった。
隣りの部屋から息子と一緒にゴーリキイが出てきた。実に背の高い肩幅のひろい年寄り。写真でなじみのあるあの髭、薄いねずみいろのフランネルのシャツ、その上に楽に羽織られているやっぱり灰色のような単純な上衣。握手した手は温かく大きく、そしていかにもさっぱりしている。私は、これは日向の立派な樅の木だ、とそういう感じに打たれた。
私たちは簡単にソヴェトの文学のこと、日本の文学のことなどを話し、私はピリニャークが日本にきて後かいた「日本印象記」のことについて短い感想を述べた。つまりピリニャークの文章は気取っていて面白いかも知れないが、日本という国の実際はあれには描かれていないし、女である私からみればピリニャークが芸妓というものを他のヨーロッパの作家でもそう思うであろうように、大変幻想的な美しさにみちたものとしてかいている点は
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