私の科学知識
宮本百合子

−−
【テキスト中に現れる記号について】

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)かんどころ[#「かんどころ」に傍点]の掴みかたを
−−

 私の科学知識というような話題について何か語ろうとすると、真先に、貧弱という字が心に大写しになって浮んで来るのは、私ばかりのことだろうか。
 読書力というものについて他の場合にもよく思うことだけれども、私たちの読書力は極めてむらで、理解する力に甚しい差がある。私の実際では、その最も蒙昧な箇処に自然科学に関する部分が横わっているのである。科学といっても人文社会に関する科学の業績は、自然科学よりずっと日常にとりいれられ、わかるものとなっている。
 今日私を悲しく思わせる、このような自然科学の蒙昧性を考えると、女学校時代の化学教室の雰囲気が思い出に甦って来る。化学教室には厚板の実験台があり、ガス管と水道とが備わっていて、紫紺や海老茶の袴をつけ、袂の着物を着た女学生たちは、その実験台に向って席に着いた。左手に首をねじって、ボールドと先生とを見るわけであったが、化学の一時間は何と余力の欠けた、溌溂としたところのない時間であったろう。試験管を挾んで火にあたためて、薬の一二滴を落してふって色の変ったところを眺めたり、アルカリ反応、酸性反応と細く小さい試験紙をいじったこと、それらが淡い光景となって想い出される。今は女学校の化学もきっと大変ちがった教えかたをされているだろうと思う。もっと生活に結びつき、教えられているだろう。
 物理の段々教室は陰気で埃っぽかったが、化学よりは面白く思われた。
 代数は今の女学生にとってどの位興味ある課目となっているのだろうか。三年生のとき、丁度女の子の感情が動揺し敏感になっている頂上の時に代数がはじまる。トルストイの「戦争と平和」の中のアンドレイ老公が女の愚劣さを制するためにと公爵令嬢マリアに数学をやらせている描写がある。同じような配慮から、その年齢と代数とが組み合わされているのであったら、教えかたで、面白さのかんどころ[#「かんどころ」に傍点]の掴みかたを先ずわからせて行かなければ、なかなか苦しい課目になると思う。女学校でも中学校でも三年生のときは、学校が一番辛い時代である。その辛さは、自身の成長過程に不調和が生じているばかりでなく、その成長期の動乱を統一する力
次へ
全2ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング