いる若い女のひとと、働らかないで暮していられる女のひととを並べて、毎日の生活感情に空虚感なんかない筈の理由を説得しようとしても、現実にそれは承引され難い。だが、近頃、若い男女が、反動に対する消極的な反撥のポーズの一つとして、今日私たちが生きている社会の悪時代を強調し、その悪気流の中で馬鹿ででもなければ、空虚感を持たずにいられる筈がない、と思っているのには、疑問がある。
 顔の前に短く垂れた面紗《ヴェール》のように、空虚・無目的性をこの人生の前面に装飾的にかけて、その気分を持って廻るのであったら、そこには矢張り新しいようで実は大変に旧套であるところの若い女の人生への気力の弱い媚態があるのだと思う。人間は勁《つよ》い、複雑な、旺盛な存在である。真の生活の空虚には堪えない生命力を生れながらにもっている。生活感情の空虚を訴え、それを話題として語る以上は、既にもうそこに空虚はないのだと云い得る。同時に、この人生において空虚、無目的感というものと人間性の自然とはそれ程和解しがたい本質であるから、人は敏感にそれを嗅ぎ出し、問題にし、愚かな男女の間では何か近代的な媚《こび》の一つの眼使いとさえ間違えられるのだと云える。
 恋愛の生理がこの頃急速に人々の常識に入って来た。人生全体の生理を私たちはもっと知らなければならないと思う。忙しく一日を過した女が、夕方、労働の満足感のかわりに、そうやって過て行く自分の人生というものに疑を感じたとしたら、私たちは、どうせ今の世の中に云々と粗末に高をくくってはならない。その女の仕事の種類、働く時間、月給、同僚、恋愛と結婚との問題にまでふれて、その空虚は分析されなければならない。その諸条件と今日の社会との相互的な関係、及び、その関係において、手近に改良され得る種類のものと、永い歴史の進歩を必要とするものとが、はっきり見きわめられなければならないと思う。その上で、自分の生きる道をそれらの広いところから眺めて、避け難い部分に向っては真に美しい人間の堅忍と勇気とを発揮して負担しながら、猶且つ押しすすめられる一歩、半歩を充実して押して生きて行く。これが人生の生理である。私たちが生きて行くためには人間としての善意と同時に意志が入用である。
 心を追っかけることばかりをせずに、自分の心を素早くつかまえて、それを吟味して、整調し健康な場所に置くだけの、精神の運動神経
前へ 次へ
全3ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング