私たちの社会生物学
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)物懶《ものう》い
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地付き]〔一九三七年八月〕
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毎朝きまった時間に目を醒す。同じ部屋で、同じ蒲団のなかで。それから手早く身じまいをして、勤めに出てからはずっと緊張した仕事から仕事への一日が過ぎる。夕方になるときまった時間に、下駄箱のところで上草履を下草履にはきかえて、電車通りへ出て来る。そういう時、ああ、きょうも済んだという安心と一緒に、又あしたも今日とおんなじ日が来るのかという何か物懶《ものう》い感情が湧くことがある。毎日、毎日。そして一年、二年。働いて行くということは避け難いことであり、その必要も意味もわかっているのに、時折働いている若い女の心を襲う何か空虚に似た感じ、これでいいのかしらと思う心持は、一体どこから来るのか。
若い妻の或る時の感情にも、これに似た陰翳の通りすぎることはあるにちがいないし、一見苦労のない日常生活の事情で、いろんな稽古事をやったり、シネマを見たり、踊ったりしている若い娘さん達の気分の上をも、やはりこういう雲が通りすぎる事があるだろう。
心持の表面を掠めるのではなく、生活感情の断層のようなところから、そういう落着かなさ、内容の不明な不安がきまった箇所にいつも閃いて見えるようになった時、その人たちは、自分の生活がなんだか全部あるべきようには無いのだという自覚を持ちはじめる。
こんな感情を、昔の教訓は面白い言葉で誡《いま》しめた。曰く「小人閑居して不善をなす」明治・大正の女流教育家たちは、その解釈を、日本資本主義の興隆期らしい楽天性と卑俗性とで与えた。人間は目的を持って努力の生活をすれば、自ら身体は強健になり、蓄財も出来、老後は天命を楽しめるのである。「怒るな。働け」と。
今日の生活は、こういう単純な警告に対して、論争はせずに唯笑って過す程、女の社会性は複雑になって来ている。はっきりそれを言葉として云うか云わぬかは別として、人生の目的という観念そのものに詮索の目を向けている。怒らず働いて、生活の不安がなくなるものならば、どうして少年少女の時代から怒らず工場でよく働きつづけた今日の青年達が、弱体であり、知能が低いと保健省を驚駭《きょうがい》させるのであろうか。
働いて
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