建の社会の中にあって封建のしきたり、道徳観、身分制などというものと、むき出しの人間性、ヒューマニティーというものがどのように葛藤し、※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]《もが》き、悲劇的な終結を持たなければならなかったかということを、曲節をつくし、雄弁に物語っている点にある。
当時近松の題材となったような相対死(心中)が非常に現われた。又、いわゆる不義とされた男女関係の悲劇も多く現われた。近松は、この世の義理に苦しみ、社会の制裁に怯える男女の歎きと愛着とを、七五調の極めて情緒的な、感性的な文章で愬《うった》えて、当時のあらゆる人の心を魅した。社会の身分の差別はどうあろうとも、偶然の機会から相寄った一組の男女が、自然のままに自分達の感情を伝え合わずにはいられないということを、一応は肯定するところまで、当時の人間性の本能的な理解が拡がって来ており、しかも、その愛情の貫徹のために、社会の枠を自分達の力で破壊して行く努力、そのような建設的な恋愛というものは、まだ自覚されていなかった。憐れな二人は最後には死ぬことで、この世で実現されなかった互いの結合を全くしようとしているのである。
近松は、文学者として女主人公達と共に、その生き方の限界に自分を止めた。近松には、主人公達の苦悩と死に方とを、もう一歩生きる方へと導いて行くだけの社会的覚醒と自立性とがなかった。このことは近松の生れた元禄の時代が町人の擡頭と武士階級の崩壊時代ではあってもまだ身分の差別はきびしくて、封建の外郭は堅かったことを反映している。どんな卓抜な文学的天才でも、その人の生きる時代の歴史的な重みというものから、その個人だけで完全に解放され切らないということを証明している。
当時の婦人達は、浄瑠璃として又は芝居として、近松の描き出す哀感に満ちた世界を、自分達の感情の奥底にある響きとして聞きもし、見もした。婦人はこのようにして男子の作家によって描かれ、そして謳われた。しかし、当時の婦人の文化的な能力は、日常の帖つけ、手紙をかくに不自由しない読み書き算盤の低い範囲に止められていたから、その複雑な時代に生きる自分たち女性自身の描き手としての婦人作家は、一人も出ていない。武家時代から徳川の全時代を通じて、日本には婦人作家というほどのものが出なかった。元禄時代には、辛うじて俳句の世界で加賀の千代、その他数名の優れた女性達が現われた。けれども、小説というような、社会に対する客観的な眼、自分の生活に対する省察と洞察とを要求されるような精神上の労作は、封建の数百年間、日本婦人の可能から、奪われていたのであった。
徳川の政権は次第次第に揺ぎ出した。遂に黒船に脅かされ最後の崩壊の兆を示した(一八五三)。日本の歴史を見て、深い驚きにうたれることは、ヨーロッパにおいて人文復興のルネッサンスが起り、近代に向う豊富な社会生活と文化とが発生しはじめた丁度その頃に、徳川の完全な鎖国政策がはじまったことである。ヨーロッパが、まだ蒙昧な、半ば野蛮時代の生活をしていた十一、二世紀に、日本は既に藤原時代の社会生活と文化とを持っていた。従って、当時の世界で、日本は確かに支那に次ぐ文化の先進性を持っていたのであった。ところが、肝腎の近代の黎明であるルネッサンス前後に(十六世紀)日本の支配層が小さく安全に自分の権力を確保しようとして、厳しい鎖国政策を執ったために、ヨーロッパがその後急速に近代化した三、四世紀の間を、日本は全く孤立して、独善的に生産も経済も全くおくれた土台のまま封建社会の生活に過して来たのであった。
徳川中葉以後、町人階級が勃興したといっても、それは先ず、イタリーを中心としたヨーロッパの重商主義的な商業の大発達、ハンザ同盟、諸大学の設立、部分的ではあるが婦人の向学心も承認されて、スペインのコルド※[#濁点付き片仮名「ワ」、1−7−82]大学には数人の婦人学者も生れた事情とは全く無縁であった。封建日本の知識人たちは一部の勇敢な人たちだけが、徳川の禁止に脅かされつつオランダ貿易を通じてチラリ、チラリと覗《うかが》われるようになった近代欧州の知識に関心をよせ、そのためには生命を失いさえしなければならなかった。国内の社会事情の矛盾から、文学上には、一種の無常観、俳句において代表されている「さび」の感覚などのうちに退嬰《たいえい》し、徳川末期に到っては身分制に属しながら実力はそれを凌駕している町人階級の文学としてそこでだけは武士の力がものをいわぬ遊里、花柳界遊蕩の文学が発生したのであった。この種の文学の世界では近松の作品にあっては人間性の悲劇の女主人公として見られた女性も、当然あそびの対手としてしか、美も情感も認められ得なかったのであった。
明治開化の明暗
明治は、日本が新しい誕生を以て近代世界の中に歩み出そうとする激しい希望を以て始められた。明治の初期における社会の革新的な動き方は、日本の歴史に未曾有のものであった。当時の進歩的な人々が、腐れ果てた封建の殼から脱け出して、新しい日本人として発展しようとした欲望には、真実が籠っていた。例えば今日常に保守的或は反動的な役割を持っている文部省でさえも創設されたばかりには、本当に日本の人民の間に文字を普及させ、常識を広め、輿論の担い手となり得る人民の文化を導き出そうという熱心な意図をもっていて、先ず『言海』という字引を出したりした。文部大臣であった森有礼は、一人の進歩主義者、或は合理主義者であった。彼は伊勢の神宮へ行って、伝統的な迷信の中心である伊勢の神宮に、真に尊敬すべき何の実体も蔵されていないことを証明するために、御簾をステッキの先で上げて天罰というものの存在しないことを証明した。彼は進歩性の故に暗殺されなければならなかった。なぜならば、当時の日本の支配権力は憲法発布と同時に、はっきりと反動的な政権として国家を統一する方向に向ったからである。
憲法発布以前、封建の重荷を脱して新しい日本の社会を作ろうとする気運が純粋に高まっていた時代、その先頭に立ったのは板垣退助を首領として自由民権を唱え、一八八一年(明治十四年)に結成された自由党の人々であった。自由民権というとき、当時の日本人は必ず男女平等を考えた。政治上における男女平等の権利及び義務の観念に立った自由民権時代の政治運動は、たくさんの婦人政治家を、その活動に吸収した。例えば有名な中島湘煙(岸田俊子)、福田英子などという当時二十歳前後であった婦人政治家たちが、男女平等を唱えて日本全国を遊説した。大阪などでは少女が、政壇演説に出席したという話さえも伝っている。岡山には女子親睦会という政治結社が出来てあったし、仙台には女子自由党というのが組織されていた。その指導者は成田梅子という人であった。
これと略《ほぼ》同じ時代、一方に婦人の政治活動が盛んであったと共に、女子教育もアメリカの宣教師たちの指導によって、やはり男女平等を水準として開始された。京都の同志社、東京の明治女学校そのほか仙台、横浜、などに、進んだ女学校が開設された。それらの女学校では全く男の学生と同じに直接英語の教科書を使って、英語、数学、地理、歴史、などの勉強をした。後に津田英学塾を設立した津田梅子が、六つの歳に岩倉具視の一行とアメリカへ留学(明治四年)したり上流婦人でも男に劣らない一般教育の基礎を持つ時代があった。今日、明治の先覚的な婦人として我々に伝えられているキリスト教関係の多くの活動的な婦人は、殆ど皆この前後、いわゆる明治の開化期に、進歩的な教育を受けた人々なのであった。若し日本が、そのようにして歩み出した男女平等の道を、正直に今日まで歩み続けることが出来たならば、日本における婦人の諸問題は、どんなに変った現われをもって、今日の私たちの前にあっただろう。もし、その道が可能であったのなら日本人民全体が決して今日の困難を見ないで、民主化されていたに相違ない。
日本の明治維新というものはその革命としての歴史的な性格の中に極めて強く、大きい割合で過去の封建的なものをそのままで持ちこした。一応は、封建より近代生産経済にうつるブルジョア革命のようであったが、その最も根柢をなす農業と土地の問題、生産経済の基礎などは、封建時代の制度のままその上へ近代国家としての日本が、おかぐらの二階建として据えられた。例えば土地の問題を見る。日本は封建時代より大地主たる大名があって、その土地は、それぞれの小さい区分に分けられて、名主が管理して、領主に毎年年貢を現物で納めた。つまり米、麦、その他直接生産物で納めた。明治になって廃藩置県が行われた。名主はなくなって村長となり、藩はなくなって県郡となった。けれども、それぞれの土地に居ついて来た農民は、どういう関係で日本の新しい経済機構に結ばれたかといえば、大部分はやはり昔ながらの小作百姓で、耕作の方法も、年貢を現物で払うということも、一家族がすべての労力を狭く小さい土地に注ぎ込む過小農業であるということも、ちっとも変りなかった。年貢の率が、地主と農民と六分四分という点も。土地問題は、今日まで、その封建的のままに来ていて、益々日本の進歩を阻む困難と紛糾の種となっている。生産増強のための大きな桎梏となっているのである。大体、明治維新そのものが、崩壊する武士階級の下級者と幕府より目の届きかねる遠い薩長で経済力を膨脹させて来た大名たちとが、利害を一にして、近代資本家貴族に転身しようとした動きであった。土地問題の近代にふさわしい処理の出来なかったのは、とりも直さず日本の新しい資本主義経済の支配者たちが、同時に封建地主でもあったという事実、利害の打算より来ている。資本家、地主を一身にかねて登場して来たのであった。それとともに、工業はおくれていて、資本主義国家となるためには、辛うじて、繊維軽工業にたよるしかなかった。天然資源にも乏しい。明治政府の本質というものは封建的な地主と軽工業に基礎を置いた非常に薄弱な資本家とによって組立てられていたものであって、この薄弱な基礎を護って権力を強化して行こうとするために、大名と武士から成る支配者たちは、誕生第一日から侵略的な意図を持った。西郷隆盛の政治的破局の原因となった征韓論は、その一つのはっきりした現われであった。
維新当時、それらの基礎薄弱な資本と地主の支配者たちが、外交関係において、一つの新しい権威を賦与するために、何かの形で主権者を必要とした。その主権者として、封建時代の数百年小大名より僅かな扶持を幕府から支給されて生活して来た京都の天皇一家を招待して来た。明治支配者の利害を共にするために天皇の一家も大地主となり、大財閥に勝るとも劣らない大資本家となった。所有土地百三十五万町歩、有価証券現金三億三千六百万円以上、そして一致した利害に立って、新しい日本の支配権を握るようになったのであった。
極めて特徴的な明治維新のこういう性格は、初期の動乱時代を過ぎるにつれて、支配方針の確立を求めるに当って、保守的な性質を帯びることは当然であった。自由民権の思想は一八八九年(明治二十二年)憲法が発布されると同時に弾圧を被って、自由党は解散した。憲法発布の翌年、大井幸子という婦人が自由党に加盟しようとした時、それは警察によって禁止された。「集会政社法」というものが出来て、婦人が政治演説を傍聴することを禁じた。
ここで私共は、一つの驚きを以て顧みる。日本の憲法というものは、何と外国の憲法と性質の異ったものであるかということである。憲法というものは、何処の国でも、支配者の大権と共に人民の権利をも規定したものであり、民主主義の発達した国であればある程、人民の権利に対する規定は全面的で詳細を極めている。男女にかかわらず人民が、その国の社会に幸福に生きるために必要な諸権利と義務については、人民として自主的に積極的に明確にしている。けれども明治二十二年に出来て最近まで伝えられた日本の欽定憲法は人民によって作成され、決定されたものではなかった。支配権力が自身の権力の擁護のために
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