になったのであった。
極めて特徴的な明治維新のこういう性格は、初期の動乱時代を過ぎるにつれて、支配方針の確立を求めるに当って、保守的な性質を帯びることは当然であった。自由民権の思想は一八八九年(明治二十二年)憲法が発布されると同時に弾圧を被って、自由党は解散した。憲法発布の翌年、大井幸子という婦人が自由党に加盟しようとした時、それは警察によって禁止された。「集会政社法」というものが出来て、婦人が政治演説を傍聴することを禁じた。
ここで私共は、一つの驚きを以て顧みる。日本の憲法というものは、何と外国の憲法と性質の異ったものであるかということである。憲法というものは、何処の国でも、支配者の大権と共に人民の権利をも規定したものであり、民主主義の発達した国であればある程、人民の権利に対する規定は全面的で詳細を極めている。男女にかかわらず人民が、その国の社会に幸福に生きるために必要な諸権利と義務については、人民として自主的に積極的に明確にしている。けれども明治二十二年に出来て最近まで伝えられた日本の欽定憲法は人民によって作成され、決定されたものではなかった。支配権力が自身の権力の擁護のために
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