まま自身の特権を守って益々反動となってしまった。今日の日本の民主化は、明治にやりのこされたブルジョア民主主義化の完成という過程なのであるけれど、その初めの担当者は先にくりかえしふれたように、もう自身で民主化してゆく発展の能力を失ってしまっている。従って、新しい勤労人民階級がその原動力とならなければならない関係に立っているのである。
民主戦線といい、人民が自身の幸福への道として民主なる共和政府を設計することは、一つの社会発展の足どりとなって来ているのである。
細々として日常生活に即した要求が、婦人の特色ある社会性としていわれて来た。けれども、今日の私たちが婦人として感じ、それを無くしたい不如意の一つとして、大きくひろい全般との繋りであらわれていないものがあろうか。婦人だからモラトリアムにかかわりない、という架空の天国は、地上にはないのである。女性という性に即した実例を一つ考えよう。戦時中、婦人たちは何といわれただろう、あのように、生めよ、殖えよ、と励まされた。今日、同じ女性は何といわれているだろう。日本の人口問題は重大である、として産児制限の輪は、生めよ、殖えよ、と云った権力のその面前で闘わされている。五百円は五人家族「標準」といわれている。女性の性そのものの自然さ、高貴ささえこのように方便によって翻弄されるとき私たち婦人の胸にはほとばしる熱い思いがある。純潔な怒りが燃えるのである。母性はゆたかに、愛らしい子供たちは地にみちて、しかもそれを育て上げられる社会の条件、施設をこそ、女性は求める。それ故にこそ、母性の保護として、子供たち自身の幸福のために、科学的な調節の自由はなければならない。私たち婦人は、現支配者たちがひきおこした戦争惨禍の責任を糊塗しようとして、政府の無能を彌縫《びほう》しようとして、云々する産児制限に、決して無条件に母なる肉体をさらそうとはしないのである。
今日の私たち日本の人民は、日本の生活がこのようにも艱苦にみち、引裂かれているからこそ、ひとしお、わがふるさとを、深い心に抱きとっていると思う。建設のための犠牲の日々であるからこそ、おのおのの生を厳粛に自覚し、新しい民主日本のために其の価値を、一杯に活かそうと思っている。そのために、すべての婦人は事理明白であろうと願っているし、無限の若さを、その最後まで惜しまず新しい日本のために注ぐことを切望している。穢い手がわたしたちの肩にかけられたとき、婦人はどうするであろう。その手を、ふり払って、自分の道を進まないものがあろうか。日本婦人のやさしい雄々しさは、それを逆用した穢い手から奪いかえされて、自分と自分の愛するすべての者の幸福の確立のために、まめに、うまずたゆまず、昔ながらの温かさに今日の叡智と覚醒とを添えて、働かなければならないのである。[#地付き]〔一九四六年四月〕
底本:「宮本百合子全集 第十五巻」新日本出版社
1980(昭和55)年5月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十二巻」河出書房
1952(昭和27)年1月発行
初出:「私たちの建設」実業之日本社
1946(昭和21)年4月発行
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年6月4日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全28ページ中28ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング