つくった傾きがつよいから、人民の諸問題よりも大権を絶対のものとして明記してあることに注意が集注されている。人民の諸権利についての具体的条項は、漠然としてしか扱われていない。ましてや、この特異な日本憲法において、全人口の半ばを占める女子の社会的地位を、男女平等の人民として規定しているような条項は、一つもないのである。それは、明治というものの本質から結果された。先に触れたように、明治の支配者が社会に対して抱いた観念は、何処までも彼等の利害を主眼とした富国強兵を主題としていた。農民と土地との関係が、昔ながらの地主と小作の形のまま伝えられたと同じように、「家」というものと婦人との関係、男子に従属するものとしての女子の関係は、殆ど近代化されず封建的のまま踏襲した。
この深刻な日本婦人の運命に重大な関係をもった明治の特徴は、一八九九年(明治三十二年)女学校令というものが発布された、その内容に、まざまざと反映されている。
明治の開化期の先進部分の人々には女も男と等しく智慧を明るく、弁説も爽かに、肉体も強く、一人の社会人として美しくたのもしく育ち上らなければならないという颯爽たる理想が抱かれていた。けれども、女学校令の中では、その悠々としてつよい展望は惨めに萎縮させられた。文部省は、女子の社会的存在意味を男のための内助者としての範囲に止めて、教育制度も限定した。それらの保守的な人々は考えた。家庭を円満に治めるためにも、男子の手足まといになりすぎる程物の道理が判らなくても困るが、余りはっきりしすぎて男が煙たいほどでも亦困る、と。その基準で、いわゆる家事科目を中心とした、女子教育の基準が決定されたのであった。これが今日まで女子教育方針の根柢をなしている。そのために外形上、女子大学、専門学校等が出来、何人かの婦人弁護士と、より多数の女医、沢山の女教師が出ている今日でも、その人々の専門家としての力量、社会人としての智力能力は遺憾ながら、大体同じ専門教育を受けた男子と等しくないという悲しい結果を齎しているのである。
一九〇〇年(明治三十三年)には治安警察法第五条が制定されて女子の政治運動を禁止した。一九〇三年(明治三十六年)堺利彦等によって平民新聞が発刊されたとき、この治安警察法第五条を撤廃させようとして、堺ため子が議会に請願書を出した。第一次大戦終了後の大正年代に、新婦人協会など同じ
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