り、私はそれを書いていた時、それを活字にするなどということについては思ってもいなかった。祖母が福島県の寒村に住んでいて、私は殆ど毎年夏休みはそちらで、裸足で、どこの百姓家の土間へも、鶏にくっついて入って行くような暮しかたをした。その間に見た農村の生活が強烈な印象を与え、自然発生的に書いたのであった。はじめ「農村」という題で三百枚ほど書き、例によって手製の表紙をつけて綴じて持っていたのを、また気のむくままに書き直した。最後の一句を書き終ったのは、夜更けであったが、私は自身の感動を抑えることが出来ず、父と母とが寝ているところへ原稿をもって侵入して行った。そして、母に読め読めと云い、それを読み了ったら母も涙をこぼしたのを覚えている。雑誌には周囲のものの意志で載るようになった。原稿料をもらった時は、どちらかというとびっくりした。自分が原稿料等というものをとれると思っていなかったのであった。

 処女作が発表された当時、年はひどく若いし、当然小説そのものにしろ自然発生的にしか書けない時であったから、いろいろに云われ、注目されるのが苦痛であった。特に、自分としては心にもないポーズを、母などが対外的にやるようなことが起って、嬉しさより苦痛と不安とが次第に加わった。

 当時私は文学的な影響としては最も多くトルストイの翻訳から学びもし、模倣もしていた。「コサック」や「アンナ・カレニナ」など、今日思出しても新鮮な熱情をもってよんだのであったが、ここに一つ実におかしいことがある。私の公的処女作というべきその「貧しき人々の群」の中には、ところどころで作者がやみ難い人道主義的感激を「子供等よ!」という農民への呼びかけで表現している。また「わが兄弟」という言葉でも呼んでいる。それは、まさしく当時の私の心魂をつかんで燃え立たしていたトルストイの翻訳の中にある文句なのであったが、それから十数年後、ソヴェト同盟へ行って見たら、どうだろう! 直訳文のままながらも私の感情を表現するものとして役立っていたその「子供等よ!」という呼び声が溌溂としたコムソモーレツの喉から、労働者の口から、愛する今日の仲間への呼び声としてやはり高々「レビャータ!」と叫ばれているではないか。私は自分の幼い「貧しき人々の群」を思いおこし、ああこの「レビャータ!」という親愛のこもった呼び声こそ「子供等よ!」であったかと、嬉しく懐し
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