を深くさぐられた先生だけあると思われる。
 同じ、馳落を書かれても露伴先生のは、どっかすっきりした禅めいたところがある。
 対髑髏《たいどくろ》 にしても若しあれを紅葉山人が書かれたものとしたら、そう云う題もつけなさらなかったろうし、又あの女主人公のお妙《たえ》を「隣の女」のお小夜の様な凄い腕の女にされたかもしれない。
 露伴先生の様な思想をもって居られたら、あの才筆とともなってどんなに立派なものが遺されたかしれないと思う。
 一葉女史にしてもそう云う感じはあざむかれない。
 あの「にごりえ」や「たけくらべ」の人物を写す立派な筆、情のこまやかな、江戸前の歌舞伎若衆の美くしかった頃の作者に見る様なこまかい技巧をもって、もう少し考えさせる材料に手をつけられたらばと思う。
 私は必[#「必」に「ママ」の注記]して、紅葉山人や一葉女史が、取るに足らない作家だったとか何とかけなすのでは必してない。紅葉山人が、用語の上に非常な苦心をもって、新らしい試をされたのだけでも氏の遺業は大なるものであると尊ぶのである。
 一葉女史にしても、そのまれに見る才筆にはいかなる賛辞も惜しまないのである。
 けれ共、
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