勿論上下、貴賤[#「貴賤」は底本では「貴餞」]、貧富の差はあっても、同じ様に男女関係を骨子としてある。
 そのなりゆきを序す筆の達者さ、巧な人物の描写法、活用法に一つ一つ独立させて、異った時に読めばあきる事をしらないのである。
 いかにも、上手に書かれてあると思う。
 けれ共、二つ三つと、よし異った形式、事柄でも、よんで居るうちに何となしけったるくなる。
 まるで違った材料をあつかったものが欲しくなる。
 一葉女史の作品でもそうだと思う。
「にごりえ」から始まって「たけくらべ」に至るまで、同じ様な骨子である。
 立派に活きて居る才筆である。
 まことに驚くべきものである。
 紅葉山人のは勿論、少しは異った材料も、あつかって居られる。
 けれ共、それは割合に、作者自身あんまり重きを置いて居られないらしく見える。
 紅葉山人の筆があって露伴先生の頭があったらと思う。あんまり沢山読んで居るのでもないしするから、よくわからないけれ共、露伴先生よりは、紅葉山人の方が人物の描写が、何とも云えないほど上手であられる様にも思われるし、又才筆であった。
 露伴先生のは、思想がいかにも卓越した、流石は禅学
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