ごう》の裡で群集の感情にふれ、自分の感情をも吟味し、こんな不如意をどうしてこんな元気でしのげるかという一般的なおどろきから、やがてその理解に入って行く塩梅とは、どこやらちがうものがあった。そんな違いも互に認めあっていて、諧謔《かいぎゃく》の種ともなって来たのであったが、今、突然朝子にだけそこでの生活を一層承認し保証する意味をもつ居のこりの可能が示されたことは、朝子自身に亢奮なしで感じられないとおり、素子には何か自分だけ三年の果に本の荷箱と一緒に荷って放り出されたような、沮喪させられる切なさであることもわかるのである。素子がひとりかえるとすれば、それは文字どおりのひとりで、生活においても、心においても、朝子とはちがうものとして、朝子を承認したものに承認されなかったものとしての自分を自分に納得させなければならない。しかしそれは素子にとってどんな苦痛だろう。その苦痛が、情愛の問題より深刻に二人の人間としての精神に切りかかって来ているものであることが、さっき重い扉を押してトゥウェルフスカヤの通りへ出た時から朝子には犇《ひし》と感じられているのである。うっかり考えこんでいるので、朝子は自分がもう勘定場の前まで来ていたのに気がつかず、黒い布で頭を包んだうしろの年とった女から、
「どうしなさったね。財布でもおっことしたのかね」
と注意された。

        二

 朝子の気持は素子にもよくわかっていると思えた。朝子はつまりは自分で決心するとおりに行動するだろう。これまでずっと、そして生きて来たとおり。だが、その決心はまだ心の中にきまらずにいる何かの理由でかためられていないのだ、と。そういう自分の気持が、素子にありのままうつっていることを朝子もまた十分知っていた。二人は、翌日になってもどっちもその問題にふれなかった。けれども、薄青い壁にかこまれた部屋の空気にはこれまで二人のいる処になかった一種の緊張した、神経質な空気が漂いはじめた。大体に口数が少くなり、笑うこともなくなった一日の中で、素子は頑固に机に向っているが、神経の端々はいつも水色のジャンパアを着た朝子のまわりに動いていて、その心のうつり行きをうかがっているような雰囲気である。
 部屋の真中に立っている本棚の仕切りの右の窓べりで、朝子はひっそりとして勉強していた。窓じきいには、酸化牛乳《プロストクワシャ》のコップが世帯じみた光景をかもし出しながらのっている。朝子は辞書を絶間なくひっくりかえしながら翻訳をしているのであった。歴史で有名な或る婦人の伝記で、特別文学的に書かれているのでもなかったから難解ではなかったが、慣用語で朝子の知らないのが少くなかった。朝子のつかっている字引にはそういう細かいところまで出ていないのであった。紙きれにそんなのを幾つか書きつけた。そして仕切りのむこうから煙草の煙が流れているとき、それを素子にききに行った。
「ちょっと、これ何ということになるのかしら……」
 素子はこれまでの二人の生活の習慣から何ということなし黙って、朝子が目の前に出してある紙きれの上にかかれている下手な字を読んでいたが、読み終ると急にこみ上げる激しい感情に喉をせかれたような声で、
「自分にやれると思ったので引受けたんだろうから、ひとりでやったらいいだろう」
 突っぱなして云った。そんな仕事を朝子が熱心にやっていることも今の素子には腹立たしい刺戟である。それがあらわに示された。これも、今おこっている問題と連関をもっていた。朝子としては、仕事そのものより、自分の誠意の問題として大事に考える種類のことなのであった。
 突っぱねられて、朝子は悲しい顔をした。そういう態度で素子が自分の個性にだけ立てこもって二人の距離をひらいてゆくようなのが、朝子にはこわくてまた悲しいのであった。それなり暫く朝子は傍に佇んでいたが、やがて自分の机へ引かえした。到頭、そんなことを云わないで、という言葉が朝子の口を出得なかった。今度の問題は、素子がそれほど恣意的に振舞う筈のものだろうか。そういう素子を隔たった眼で眺める心が、朝子のうちにもかき立てられた。
 窓の外に視線をやって頬杖をついていたら、顔をこっち迄現わさないで、素子が新版の大きい辞典を机のはじへ突き出してよこした。
「それを見れば大抵のものはある――」
 朝子は無言でしずかにそれを自分のよこへ置き直した。
 自分の心のうちの動揺を整理してゆく手がかりにも思えて、朝子は一心に誰の助けもかりずその仕事をつづけているのであった。
 その間にも素子は、二人が帰国の準備として立てていた計画を決して変えようとせず、躊躇したり見合わせたりせず、今は、どっちみち自分は帰るんだからと押し出したテンポで着々すすめて行った。そのことのために、自分は益々机と本とにつながれ、朝子はやはりこれまでのとおり毎日遠方の出版所へ定期刊行物を予約に行ったり、役所へ行ったりした。そんな場合、朝子は自分の生活にとってそれ等の事務的な用件の現実性が全部遠くなったような奇妙な心地と、もしかしたら素子のためにこのようなことをしてやる最後かもしれないという生活の転機を自覚した名状しがたい心持とを、同時に経験するのであった。
 火曜日の夕方、出がけに素子が外套を着ながら、この頃では珍しいあたり前の調子で、
「今夜はどうする?」
ときいた。一週に二度ずつオリガという女友達のところへ行って、素子は読んでいる小説の俗語の云いまわしをきいて来るのであった。
「さあ……」
 朝子も立って来て、身仕度をするのを見ながら、
「どっちでもいいけれど、私は――」
「おいでよ。この間もオリガさんがきいてたから。何故この頃来ないのかって」
「じゃ行くわ、二時間もして行くわ」
 七時になると、朝子は身仕度して、城壁の傍の広場まで歩いて、そこからバスに乗った。市の外廓に向うバスはその時刻にはごく空いている。市街の中心を大分出はずれた大きい四辻で降りて、人通りの疎な、薄暗い往来をすこしゆくと、古風な彫物の窓枠をもった木造の家があって、寂しい板囲いの塀がそれにつづいている。板囲いの木戸を入ると、楡の大木の生えた内庭があって、オリガの住んでいる二階へあがる木の段々が、いきなりその内庭へ向って開いているのであった。階下に住んでいる家具職人の窓から洩れて来るぼんやりした光をたよりに一段一段のぼって行って、ドアをあけ、天井の低くかぶさった小部屋の灯の下に白いブラウス姿でいる血色のいいオリガの顔を見たら、朝子は思わず、
「ああ来てよかった!」
 そう云って、オリガの堅い力のある手を握った。
「今更みたいに!」
 オリガは笑いながら、テーブルのむこうの素子を顧みた。
「私のところは、いつ来ても、来てよかったところじゃありませんか、ねえ、モトコさん」
 素子は何とも云わず煙草をくゆらせ、しかし朝子が現れたときの最初の一瞥でやはりその心の中まで調べずにはいられないような視線を走らせたのであった。朝子は、オリガとあれこれ世間話をした。オリガは勤人で、その小部屋には寝台と一つの本棚と箪笥とその上に飾られた何枚かの写真とが、僅かの家具類と共にあるだけであった。そんな生活の道具だてのなかに一種の居心地よさがこもっていて、さっぱりした住みての人柄が感じられた。
「あなた方、かえる迄にもう何度来られるかしら。一つおいしくお茶を入れて御馳走しましょう」
 石油コンロで湯をわかし、オリガがジャムをとりわけていると、その手元を見守っていた素子が遂に辛棒しきれなくなった風で、
「私が帰ることは確だけれど、朝子さんがかえるかどうかは知りませんよ」
 変にしずかな声で云った。オリガは、
「本当に?」
 びっくりした表情を素子に向け、朝子に向けた。
「モトコさん真面目に云っているの?」
「真面目さ」
 朝子は困惑した顔つきで黙っていた。その顔をじっと見ていて、オリガの眥《まなじり》に皺のある大きい眼に思いやりの柔かみが浮んだ。
「それで――もう決定したの?」
「いいえ、まだ」
 誰もそれ以上は云わず、暫く皆だまり込んでしまった。やがてオリガが、自然に話題をかえて自分の小さい甥の噂をはじめた。それからまた一転して、今度は素子と俚諺《ことわざ》の話がはじまった。その話では素子が感興を面に浮べ、帳面をひろげて書きこんだりしている。
 朝子はこの問題がおこって以来、初めて、いいえ、まだ、という二言で素子の前にも自分の心を表明したわけなのであったが、そう言葉に出された自分の声を聴いてみると、一面では至極当然簡単に決定しそうなことが決定しかねているという、心持の撓《しな》いに愕く気持がつよく湧いた。
 話が切り出された初めから、ここに止って作家として活動すれば最低で二百万部は出版されるのであるしというような点は、朝子の心にそう深く刻まれなかった。朝子を感動させたのはそれよりも、ここに止って活動し得る作家としての評価であった。自分が作家としてそれにいくらかでもふさわしい者だという、その大きい駭きと歓びとの激しさであった。その感動が余りひどくて動顛に近い心の波をおこしたとともに、今、いいえ、まだ、と云いつつその心持の限りでは、こころからの受諾を感じるのであった。涙の浮ぶ混り気なさでそれが感じられている。でも何故それなら、いいえまだ、なのだろう。
 朝子は同じ小テーブルの向い側にぼんやり見ていた素子の物を書いている頭のところへ、改めて我が目を据え直したという眼瞬《まばた》きかたをした。そこまで考えを追いつめてみれば、もうそれは素子の感情などとは関係なく、この問題そのもののうちに含まれている何かが、朝子に「いいえ、まだ」もうすこし深まることがあると、微に、しかし決定的な粘りで蠢《うごめ》いていると感じられるのであった。
 オリガの家の板囲いの塀を出ると、素子が、
「どう? すこし歩こうか、いや?」
ときいた。それは出がけに朝子が気付いたよりも、更に劬《いたわ》りの加った調子であった。オリガへの返事を、素子がどうとって、どんな自身の心持のよりどころとしたのだろうか。そういう不安と詮索が閃いたが、朝子はおとなしい口調で、
「じゃ、あの赤いお寺の横までね」
と承知した。心に新しく浮び上って来たまだ形のはっきりしない考えの重さが、ひとりでに朝子をおとなしく引き緊めているのであった。
 丁度いろんな集会が終った刻限で、店舗のないその辺の薄暗い歩道も活気を帯びていた。この時間に朝子たちと同じ方向へ歩いているのは僅かで、むこうの闇からぼやけた輪廓をぐんぐんと近づけて来る通行人たちが、あとからあとから擦れちがいざま、パッと街燈の光の圏に入った刹那だけ様々の顔立ちを夜霧と白い息の交ったなかに見せ、忽ち通りすぎてゆく。
 大劇場のある城壁近くの広場は、人波のひいた直後の深夜の寂しさが通りにみちていて、ゆるい勾配で上りになっているそこを、ホテルの方へゆっくり歩いた。ぽつりと素子が云った。
「作家がね、自分の国の言葉で書けなけりゃ仕様がないだろう?――私はそう思う」
 言葉というだけの意味でなら、朝子におこっている話の場合、それは云わば先ず第一に朝子として出したことであった。日本語のわかるものがいくらもいるんだから、そんな心配はいらない。朝子は日本語で日本のことを書けばいい、と云うことになっているのであった。
「語学の条件としては、解決しているんだけれど……」
「日本語で書くわけか……日本のことを?」
「ほかに私として意味がないわけでしょう」
 素子は黙っている。
 日本語で日本のことを小説に書く……ここで。――その観念には、夜空にプラカードのはためく人通りのすくないこの歩道の上で、ここの生活を日本へ書いて送っていたこととおのずから違ったものとして、朝子の実感にふれて来るぼんやり居|馴染《なじ》めないものがあることもおおえない。二人は、一つのことをあっちの端とこっちの端とで考えている表情のまま、黙ってホテルの階段をのぼって行った。

        三

 どんな気持で、素子はあんなことを特に云ったのだろ
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