広場
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)凹《くぼ》んだ

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)その大きい衣裳|箪笥《だんす》の

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)どう[#「どう」に傍点]というところに
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        一

 大階段を降り切った右手のちょっと凹《くぼ》んだようなところで預けてあった書附をかえして貰うと、更に六つ七つの段々からウラル大理石を張った広間へぬけ、大きい重いガラス扉を体で押して外へ出た。
 暖い冬の匂いのするトゥウェルフスカヤ通りの雑踏が、朝子の目立たないその姿を忽ち活気の溢れた早い自身の流れの裡へ巻きこんだ。日光はあたたかく真上から市街を照らし、建物の錆びた赤や黄色の外壁をぬくめているが、ふと行きずりの通行人の外套からは、もう何処かに消えない霜があることを知らせる匂い、懐しい毛皮の匂いなどが軽く空気の中に漂っている。
 手套をはめた片手は深くポケットへつっこみ、片方の手で質素な茶色外套のカラアのところを引つけるように抑えてベレーをかぶった顔をうつむけたまま、朝子は暫く機械的に歩いた。
 プーシュキンの立像のある並木路の切れめまで来て、そこの広さが朝子を我にかえらした。
 朝子はうつむいていた顔を初めて擡げ、一遍みたものをもう一度見直すというような眼差しで、歩道に籠をもって並んでいる向日葵の種売りや林檎売り、色紙細工の花傘の玩具を売っている黒い服の纏足した支那婦人などを眺めた。どうしても外套を引つけずにはいられないような感動はまだ去っていず、電車をやりすごす間そうやって立ち止ってそんなものを見ている自分の顔つきに動顛のあらわれていることを、朝子ははっきり感じるのであった。
 この都会に自分がのこって暮せる。そんな可能を思ってみたことがあっただろうか。西ヨーロッパを旅行して来てからは一層新鮮な理解と愛着とを感じて、謂わば胸元をおしひろげて日夜揉まれているこの人波の中に、本当にその群集の一人としてとけこむことも出来るのだというようなことを、考えたことがあっただろうか。それが、今突然、実にたやすい、むしろ当然なことのうつりゆきのようにして、朝子の前に示されたのであった。朝子と友達の素子とが、この年のうちには故郷へ向って出発するときまっている今。――
 いくらかくつろぎながら、しかしひとりでにまたうつむいてしまう思いにとらわれて、朝子は自分たちの住んでいるホテルへの角を曲った。階段の中途で、絨毯《じゅうたん》掃除をしていた掃除女のカーチャが道をあけると、何とも云えない底に輝きのこもったような優しい、同時に心はうつろのような微笑を与えて、朝子は廊下の奥にある室のドアをあけた。
「ただいま」
 左手の窓に向って机についている素子は、あっちを向いたなり、それにこたえる声を出した。朝子はのろのろした動作でベレーをぬいで入口の帽子かけにかけ、外套をぬいで同じところへかけ、自分のベッドの傍へ行ってそこへ腰をおろした。部屋は割合ひろくて、さっぱりした薄青い壁の上やあっち向きの素子の両肩のあたりに、二重窓からの少し澱んだ明るみがおどっている。一つの高い本棚を仕切りにして、朝子の机は右の窓のところにあるのであった。
「どうした!」
「ふうむ」
「いたんだろ!」
「いたわ」
 ペンの速さをまして最後の行を書き終る様子が、はなれている朝子のところから見えた。
「――どうしたのさ」
 やがて椅子の上で、くるりとこっちを向いた素子の棗形の顔の上に、急に拡がってゆく驚駭の表情を見ると、朝子はとりも直さずそこに自分の動乱が映っているようで何とも云えない苦しい気がした。けれども自分の顔つきをかえる力は、今の朝子にないのであった。
「どうしたのさ」
 どう[#「どう」に傍点]というところに特別力をこめて云いながら、素子は何か警戒するように、離れている二人の間にある距離の助けで何かをそこからさぐり出そうとでもするように、凝っとその場を動かず、部屋の中を往ったり来たりしはじめた朝子を見守った。
 やや暫くして、素子が一種の皮肉を帯びた声で、
「何か云われてでも来たんだろう」
と云った。素子も、きょう朝子が訪問した老人は知っており、きょう朝子がそこへ行ったことも知っているのであった。朝子は黙ったまま暗く複雑な光をもって自分に注がれている素子の眼の中を真直に見た。素子は、
「どうせそんなことだろうと思った!」
 そして煙草に火をつけて、長く烟《けむり》をふきながら上の方を見ていたが、
「のこれって云ったんだろ?」
 いくらかやさしく訊いた。朝子はうなずいた。
「そりゃ、あなたにはそう云うさ」
 その語調には深く傷けられた素子の気持と自嘲とが響いた。
「そりゃあなたには云うさ、私には云わないよ。そうだろう?」
 ハ、ハ、ハ、と苦しそうに区切って顔を仰向けながら素子は甲高く不自然に哄笑した。そして、笑ったので溜った涙を拭くという風に、眼鏡を手の甲でもちあげて眼をこすった。朝子は自分の心の動揺とともに、そういう形であらわれる素子の混乱も見ていられない気がした。幾分子供らしい恐怖の浮んだ表情になって朝子は熱心に、
「でもその話は、作家としてのことなのよ、そういう範囲でのことなのよ」
と云った。
「どっちだって同じことさ」
 そして再び机の方へ向き直りながら、
「どうでもあなたの考える通りにすればいいが、私は、あなたのおっ母さんたちに妙な云いわけ役をさせられることだけは真平御免だからね。それだけは前もっておことわりだから。帰らないんなら帰らないでいいから、はっきり手紙でも何でも書いといてもらおう」
 ここで暮した三年を入れれば、朝子たちは六年ほど一緒に暮して来た。その年月のなかで二人の女はどっかで少しずつ少しずつちがったものになって来て、今さけがたい一つの岐点にぶつかった。そのぶつかり工合にも、何かめいめいの角度というようなものがあらそえない形で現れていることが痛切に感じられるのであった。
 寝台の枕の上へ横になった顔を押しつけて考えこんでいるうちについとろりとした朝子は、やがて、
「御飯までにケラシン(炊事用石油)買って来とかなけりゃ駄目なんだろう」
と云っている素子のそっけない声で、びっくりして起き直った。素子はわざとこっちに背を向けたまま、自分の声の素っ気なさを意識している調子で云っているのであった。
 朝子は黙って立ち上って靴をはきかえ、衣裳戸棚をあけて太い麻糸でこしらえた買物袋をとり出した。その大きい衣裳|箪笥《だんす》の左側の小さい棚が、このホテル暮しの彼女たちの食器棚になっているのであった。帰る時が目前に見えてから素子は焦立たしいような執着で朝から晩まで机と本にとりついていて、日々のそんな用は朝子のうけもちのようになった。
「じゃ行って来る、ほかに用ない?」
「私はないよ」

 ホテルを出ると、朝子はさっき来たとは反対の方角へ急ぎもせずに歩いて行った。裏通りになるその辺の車道は古風な石敷道で、永い歳月のうちに踏みへらされた敷石のどれもがいろんな不規則な形に角を磨滅されている。そのごろごろした石と石とのすき間はひろく深くて歩き難く、冬日のなかに何処となし馬糞のにおいが漂った。重い蹄鉄をうった荷馬が車輪をその石敷道の上ではね上らせながら通って行くと、元気よく石をうつ蹄の音や車輪の音が灰色っぽい左右の建物に反響して、再び下を歩いている朝子のところまでかえって来る。何かの塀で行き止りになった小路の左側に石油販売所があって、もうそこの歩道には二十人ばかりの列が出来ている。朝子はその列の尻尾についた。油じみた販売所の鉄扉は開いていて、鞣前垂《かわまえだれ》の男の姿がチラついているが、まだ売り出してはいない。日本の雀よりすこし羽色が黒っぽいようなこの都会名物の雀たちが、日向にころがされてあるドラム罐の上から、チュと囀って飛び立ったりまた戻って来たりして遊んでいる。その有様を眺めて、朝子は列の動き出すのを待った。素子と二人分の切符で瓶が二本買えた。
 それからパン屋へ行って、ここでも列について一日分のパンを買った。朝子は夜のお茶にたべるものがなかったことを思い出して、街角三つばかり先の食糧店の半地下室へ下りて行った。
 入口近くにいくつも並んだ胡瓜漬の大樽、鮮やかな朱だの水色だの不思議な色をした塩漬キノコの桶。そんなものから立つ匂いは林檎だの、奥の方にどっさりつるしてある燻製魚だのの匂いと混りあって独特の親しみある匂いで天井の低い店じゅうを充しているのであった。朝子は買物袋をぶら下げながら、あちこち見てまわった。そして、手間どってイクラだの酸っぱくした牛乳だの小魚の燻製だのを買った。紅茶と石鹸がきょう入荷したばかりで、それをめあてに押しかけた人で、勘定場の列は全くのろのろと動いているのであった。靴の底を擦って皆が一歩一歩動いている石張床は、今に雪が降るようになると辷ってころばないために、入口の段々のところからずっと大鋸屑《おがくず》をまかれる。雪でしめらされ、群集の湿気でむされる大鋸屑からは鼻のつんとするような匂いが立ちのぼって、午後の三時ごろからもう電燈の煌《かがや》いている店内に、何とも云えず陽気な雰囲気をふりまくのである。
 朝子は、三年前の十二月の雪の晩のことを思い出した。シベリア鉄道から停車場についたばかりの素子と二人が、馬車にゆられながら、幌から首をさしのぞけるようにしてどんな感動で降る雪の間に燦めいている商店の窓々やその上の方に暗く消えこんでいる夜空を眺めたことだったろう。それから何度この食糧店へも来たか数しれないわけだが、思えば、こういう平凡そうな日々の営みの中から今日までに自分が獲て来ているものを考えると、朝子は新しい感動を覚えた。今帰国をひかえて自分たちが当面している問題にしろ、それに対する自分たち二人の心理のそれぞれのちがいにしろ、心づかない間につみ重ねられて来ているその原因をつきつめてみれば、朝子にはやっぱりこの食料店《コンムナール》の北国風の匂いも切りはなせないものとして考えられるのであった。
 素子は専門のこの国の文学研究のために来た。小説をかく朝子は、アンナ・カレーニナなどという小説でごく身近に感じられている色彩の多い古い国、しかもそれが見ず知らずの新しいものになりかかっているという国、遠いところからの賞讚と誹謗とで渦巻いた中に遙に見える国の生活に好奇心を抱いて来た。素子も朝子も初めのうちは、同じように、それぞれの程度で語学の勉強をはじめたりしたが、暫くすると、一部屋住居の彼女たちの暮しに、同じ時刻の別な暮しかたが始った。素子のところへ教師が来ると彼女は朝子にその部屋を出るように云った。廊下にいることはできにくかったから、朝子はその都の案内書をたよって、いろんな場所いろんな人の集るところへ出かけた。二人の書類についての面倒くさいかけ合い、本屋で素子の必要な或る本をさがし、なければ注文する用事、それから日用品のこまごました買い出し、そういうことが素子の机に向っている時間、朝子の生活をみたすようになった。そして何と面白いものだろう。この古くて全く新しい国が一九二〇年代の終りから三〇年にかけて経験した二十四時間は、食物でも紙でも衣類でもひどく品不足で、キャベジの四分の一塊りのために朝子はたくさんの道のりを歩き、長く列につき、なおあの五つの大キャベジも自分の一人前のところでなくなりはしないだろうかとはらはらした。バタやチーズがなくなった。それは農民が牛を殺してしまったからだというけれど、何故牛は殺されるのだろう。朝子は自分たちの生活の朝から夜につづくあらゆるそういう現象の意味を知りたくて読書した。
 素子は何冊も古典や現代の詩を教師とよんだ。詩韻の解剖をやった。専門の勉学は進んだし、夏や秋の大きい旅行は素子のプランにしたがってやられ、同じように世界の古い背骨といわれる大山脈やテレクの川風に吹かれたのだが、朝子が街の喧囂《けん
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