う。彼女が文学に対してもっている理解からの誠意で云われた言葉だったのだろうか。それとも、時々素子が実際に当って発揮する非常にこまかい暗黙の悧巧さから投げた暗示のようなものだろうか。
素子の顔からは何も読みとることは出来なかった。二人はやはり用事のほかは余り口をきかず、素子は自分の苦しさからの目立った意地わるからは抜けて、しかし一定の距離から内へふみこまない態度でいるのであった。誇張の消えた事務的な調子で、素子は本を詰めて送るための木箱を催促に自分で行ったりしている。
その晩二人は劇場にいた。いつも満員の劇場だが、今夜は或る青年劇団の特別出演で、二階のバルコニーの段々へまで見物人がつまっている。天井から平土間まで、溢れる若々しい活気をやっと抑えているような何とも云えないざわめきが満ちていて、幕があがると舞台の上の若さと見物席の若さとが両方から無邪気にかけよって一つ世界にはまりこむような熱中が感じられるのであった。大体が芝居と音楽好きなこの国の連中のことだとは云え、その夜は全く特別の光景であった。年寄連中の気分もひとりでに釣りこまれて、陽気に頬を火照らしながら、手のひらに持ったリンゴを
前へ
次へ
全34ページ中21ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング