いくらかくつろぎながら、しかしひとりでにまたうつむいてしまう思いにとらわれて、朝子は自分たちの住んでいるホテルへの角を曲った。階段の中途で、絨毯《じゅうたん》掃除をしていた掃除女のカーチャが道をあけると、何とも云えない底に輝きのこもったような優しい、同時に心はうつろのような微笑を与えて、朝子は廊下の奥にある室のドアをあけた。
「ただいま」
 左手の窓に向って机についている素子は、あっちを向いたなり、それにこたえる声を出した。朝子はのろのろした動作でベレーをぬいで入口の帽子かけにかけ、外套をぬいで同じところへかけ、自分のベッドの傍へ行ってそこへ腰をおろした。部屋は割合ひろくて、さっぱりした薄青い壁の上やあっち向きの素子の両肩のあたりに、二重窓からの少し澱んだ明るみがおどっている。一つの高い本棚を仕切りにして、朝子の机は右の窓のところにあるのであった。
「どうした!」
「ふうむ」
「いたんだろ!」
「いたわ」
 ペンの速さをまして最後の行を書き終る様子が、はなれている朝子のところから見えた。
「――どうしたのさ」
 やがて椅子の上で、くるりとこっちを向いた素子の棗形の顔の上に、急に拡が
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