わけなのであったが、そう言葉に出された自分の声を聴いてみると、一面では至極当然簡単に決定しそうなことが決定しかねているという、心持の撓《しな》いに愕く気持がつよく湧いた。
 話が切り出された初めから、ここに止って作家として活動すれば最低で二百万部は出版されるのであるしというような点は、朝子の心にそう深く刻まれなかった。朝子を感動させたのはそれよりも、ここに止って活動し得る作家としての評価であった。自分が作家としてそれにいくらかでもふさわしい者だという、その大きい駭きと歓びとの激しさであった。その感動が余りひどくて動顛に近い心の波をおこしたとともに、今、いいえ、まだ、と云いつつその心持の限りでは、こころからの受諾を感じるのであった。涙の浮ぶ混り気なさでそれが感じられている。でも何故それなら、いいえまだ、なのだろう。
 朝子は同じ小テーブルの向い側にぼんやり見ていた素子の物を書いている頭のところへ、改めて我が目を据え直したという眼瞬《まばた》きかたをした。そこまで考えを追いつめてみれば、もうそれは素子の感情などとは関係なく、この問題そのもののうちに含まれている何かが、朝子に「いいえ、まだ」
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