た光景をかもし出しながらのっている。朝子は辞書を絶間なくひっくりかえしながら翻訳をしているのであった。歴史で有名な或る婦人の伝記で、特別文学的に書かれているのでもなかったから難解ではなかったが、慣用語で朝子の知らないのが少くなかった。朝子のつかっている字引にはそういう細かいところまで出ていないのであった。紙きれにそんなのを幾つか書きつけた。そして仕切りのむこうから煙草の煙が流れているとき、それを素子にききに行った。
「ちょっと、これ何ということになるのかしら……」
 素子はこれまでの二人の生活の習慣から何ということなし黙って、朝子が目の前に出してある紙きれの上にかかれている下手な字を読んでいたが、読み終ると急にこみ上げる激しい感情に喉をせかれたような声で、
「自分にやれると思ったので引受けたんだろうから、ひとりでやったらいいだろう」
 突っぱなして云った。そんな仕事を朝子が熱心にやっていることも今の素子には腹立たしい刺戟である。それがあらわに示された。これも、今おこっている問題と連関をもっていた。朝子としては、仕事そのものより、自分の誠意の問題として大事に考える種類のことなのであった。
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