もって、朝子はすっかり自分自身の心の裡にとじこもってしまった。一緒に食事をしているようなとき、それから素子が誰かと話していて不図視線が合ったようなとき、朝子の二つの眼のなかには自分に沈潜しきって自分に向って何か問いただそうとしている真摯な集注した表情があらわれていることに、素子は屡々《しばしば》心付いた。そして、その眼つきの裡には素子もないし、朝子に止まることをすすめているひとのかげも入りこんでいない。そのこともまた感じられるのであった。
朝子がふらりと行先も云わず部屋を出て行って、何時間も帰って来ないようなことがはじまった。帰って来ると、寒い戸外の匂いを髪や外套につけて来た。
二人の感情は微妙に変化して、素子の眼が時々率直に心配をこめて、相変らず出るにも入るにも水色ジャンパーを着て思い沈んでいる朝子の姿に注がれることがあった。朝子には心がどこかへかたまっている人間の上の空のおとなしさ、優しさがあって、素子は本当に言葉通りの気遣いで云った。
「ふらふら歩いてバスに轢かれたりしちゃいやだよ」
「だいじょうぶよ」
朝子は笑って答えるが、その笑顔は何か帰って来るまで素子の眼の底にのこるようなものをもっているのであった。
誰にも邪魔されずにこの大きい都会の二つの並木路や河岸や林の間を歩きながら、朝子はこの三年のうちに成長した自分というものをそれ以前の生活に迄さかのぼって隅から隅までしらべ直しているのであった。ここに止って生活する可能が示されたそのところに立って、自分の四隅を見わたしていた。自分がここに受け入れられるよろこびは朝子を真心から震盪《しんとう》するのであり、それだからこそ、真にそれにふさわしい自分かどうか、自分が作家として自分に納得出来るような業績をもち得るかどうか、そのことについて朝子は執拗に自分をしらべるのであった。朝子は客として、何かのサンプルのようにして、この愛する都の生活に寄食するには、あまりにもここの本当の姿を知っていすぎるし、自分の仕事を愛してもいるのだった。
或る晩、朝子は灯を消してからも永いこと眠らず、考えに耽っていた。カーテンのない大きい窓からは二重ガラス越しにすぐ前の新聞社の建物の屋上が見えていて、正面のイルミネーションの余光がぼんやり夜空を赤くしているのが寝台からも見える。室内の家具はその不確な外光をうけて、黒くうずくまっている。
前へ
次へ
全17ページ中15ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング