なくてはならない、こうであるべき筈のものという仕来りがたくさんございます。ところがひとり忠直卿という気象の少し激しい本当のことを知りたい人間が、可哀想なことに家来だったらよかったのに封建の殿様に生れてしまった。周りの人間はその人の気質、人間らしい要求を理解することができないから今までの殿様扱いにする。たとえば将棋をするといつも殿様が勝てるようにする。そこで俺が勝つばかりでは詰らない、少しは負かしてみろというと、今度は機械的に負ける。つまり人間らしいむき出しの交渉がない。忠直卿は激しくて何でも人間の本当のものにふれてみたいのですから、今度は向うに理窟があるだろうというので怒ってみる。そしてその時は人間らしく反撥してほしい。いや違います、そうではありません、といってもらいたい。ところが、やはり殿様ですから、恐れ入ります、おっしゃる通りです、というだけです。おっしゃる通りではないじゃないか、こうじゃないかといっても、成るほどそれはおっしゃる通りです。それで忠直卿は終いにむしゃくしゃになってしまった。当時の封建的な時代には殿様を廃業してそこらの人間になればもっともっと人間らしい生活ができるということがわからない。そこで殿様は煩悶して家来を手打ちにしたりして乱暴するものですから幽閉されて、子供に殿様の位を譲って隠居させられてしまう。ところが隠居させられたら忠直卿の性格は一変して非常に寛大で愉快に笑う男になったので人はびっくりした。殿様はあんなに虫が強かったのにどうしたのかというわけで、殿様にあなたはどうしてこんなにおかわりになりましたかと聞いたら、「とにかく俺はやっとこれで人間になれたよ」というのが菊池さんの小説なのですが、この封建的な関係は人間を人間らしくなくするものなのです。それを私共はよく考えないといけない。自分達の生活をよくするために自分達の心のなかでいかに親切に考えてもその親切が届きません。人間の関係はこの社会にあるわけなのです。たとえばあなた達は慈善の深い方達だろうと思うのです。だけれども、お勤めや何かからお帰りになる途中で、いきなり人が出てきてハンド・バッグを掻っ払おうとした時には、あなた方が慈善深い方でもお渡しになることはないと思います。そのなかにはやってよいものが入っているのではなくて、やって悪いものがそこに入っているのです。だから人の心というのは抽象的には申せません。お互いによいとか悪いとか動かないものがあるのではなくて、関係によってそれが起ってくるのです。お互いに憎まざるを得ない関係になれば、どんなによい人とわかっていても憎まざるを得ない。だから人間の関係というのは、遅れている社会関係を私達がはっきり取除けてしまいませんと、いかに心のなかで進歩的でありましょうと、心のなかにいかに希望をもっていてもそれは実現できない。またあなた方がいかに大言壮語なさり、私達があぶくをどんなに出してしゃべっても、お互いに結婚している人間ならば無能力であるということはいざというとたんになれば同じなのです。それをかえるために私達が集まってこういうようにお互いに話をいたしますけれども、人間性というものは徹底的な善人もありませんし、徹底的な悪人もないのです。もし徹底的な善人と徹底的な悪人しかないならば、この人類は一つの小説も書きません。なぜならばそれはよいことも悪いこともはっきりわかっているのですから。いろいろな関係で一生がかわり、無限の喜びと無限の悲しみが隣り合せにあるから、私達が自分の人生を真直ぐ見立てて参ります時に、この人と人との関係、つまり社会の関係において、自分がどのように生きているかということを理解しなければならないと思います。自分ひとりで生きることは絶対にできません。それはあなた方がどんなに美しい心をもっていらっしゃっても、電車の屋根から二尺ほど足を出して乗っていらっしゃることはできない。あの虱が落ちているかも知れない、発疹チブスがうつるかも知れない、あの汚い箱の中に乗って同じ軌道でこなければここへいらっしゃれない。社会というものはそういうものであります。だから電車を清潔にすること、発疹チブスをなくすること、それは社会的な問題として私達みなが関係のあることになって参ります。社会的生活が一人一人の生活に影響がないならば、私達が発疹チブスでないならば、東京中に発疹チブスが起っても平気かといえばそうではないでしょう。そこにお互いの生活は切っても切れない関係にあるということ、関係によってよい人もちっともよくない人になってしまうということ、だから関係はよく正さなければならないということは、私共の民主化ということの一番根本にあるところの問題なのです。人間の精神、人間の心、生き方の問題です。
そのようにして日本は民法にしても刑法にしても、い
前へ
次へ
全8ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング