の暗い恐怖という動物的な恐怖とを一つにして、地のはてというものに対する恐怖を神聖なものとして守っていた。星を観測して地動説をとなえたガリレイが、そういう固定観念にぶつかって、生命の危険におびやかされたことを、今日の若い娘たちは、あらまアと彼のために同情し当時の権力の暗愚を憐みまた笑うだろう。
 太古のエジプト人たちは、人間の生命は息と眼の中に宿るものだと考えた。もしそうでないなら、息がとまったとき死という現象が起り、眼の光が失われてつむったとき人間も死ぬということはない、と彼らは考えた。そして、生命という意味の象形文字は、自分たちの顔にあったと同じようなきれの長い真中に瞳の据った一つの眼にきめていた。
 ギリシア人たちが、生命は動く元素から成るといい、デモクリトスが原子論をとなえたのはひろく知られているが、その時から千三四百年経った今日では、電気が発見されていて、人間の生成をふくむ宇宙の諸関係というものがきわめて複雑な相互作用の千変万化の姿であるという理解に到達している。その変化をつらぬく法則は理解されている。私たちはもう、人間の命は眼の中にあるという素朴な固定で考えてはいない。けれども、昔のエジプト人たちの知らなかった生理の知識によって人間の眼の構造の精緻なことを感嘆する私たちのよろこばしい驚きはますます深くゆたかにされている。そして、その眼が精妙な仕組みのなかに私たちの愛するものの姿を映したとき、あるいは美しいものを映したとき、私たちの全心に流れわたる愉悦の感覚は、眼そのものにさえつや[#「つや」に傍点]と輝きとを増す肉体と精神の溌剌可憐な互のいきさつを、ひしひしと自覚しているのである。
 物質の世界と心の世界とは、人間の文明の進むにつれて、だんだん野蛮な二元的解決から解放され、そのものの現実的でまた自然な動的な相互関係の統一のうえに理解されて来ている。
 幸福というような、人間の社会生活の環境から生まれた一つの観念は、そのような人間精神の活動の結果もたらされたひろまりにつれて、はたしてどのくらい進歩して来ているだろうか。
 天国地獄、地獄極楽という観念の絵草紙が幸福の模様としてきめられていた時代、人々はぴんからきりまでのいとわしく苦しいものを日々の現実から抽象して地獄へあてはめ、ぴんからきりまでの望ましいものをあつめて天国の構造とした。そこへ幸福の観念を固定させたのだが、それに対して、いつの時代にも生存した特別に心情の活溌なある種の人々は、皮肉に人生のありのままを感じ観察していて、例えばイタリーのボッカチオという詩人は坊主くさくかためた天国地獄の絵図を、きわめてリアルに機智的に諷刺し、破壊しようとしている。「デカメロン」の本質はそういうものであった。
 十九世紀の目ざましい科学の進歩は、人間の幸福について、それを可能にしまた不可能にする社会の条件を考慮に入れるべきことを知らせた。これは社会的に生きる人類の幸福を問題とする現実的な幸福探求の道程にとっては、実に画期的な発展であった。人間が社会以外のところに生存しないものであるという生存の条件へのはっきりした理解は、社会と個人とのいきさつの研究の間に幸福の課題をもといてゆこうとする根本的な方向を決定したのである。
 そうきくと、私たちの心にまた別な疑問がおこって来はしまいか。そんなにはっきり幸福の具体的な解決が社会と個人とのいきさつの間に、その社会全体の進歩において見出されると分っているのなら、何故人間はさっさと万億人の希望であるその幸福をうち立ててゆくために全力をつくし合わないのだろうか、と。
 私たちが近頃目撃する現代の世界の状態は、人間にそういう幸福への共通な希望と解決の方向がわかっているにしては、まるで逆を行っているように思える。その逆もあんまり逆だといいたいほどでさえある。人類の誇りである智慧さえ、玲瓏無垢な幸福をつくるために役立てられるというより、死力をつくして黒煙を噴き出し火熱をやきつかせるために駆使されているようではないか。
 目前の凄じい有様にきもをひやされて、人々はこれらの現実の中に幸福はないと結論し、その結論を更にひろめて、社会と個人のいきさつを、社会全体の進歩の中に見てそこに幸福をうち立ててゆくというような考えかたの方向は、現実に即していないという気持になり勝ちである。そして、自分にとって一番つかみやすい、一番たやすい、今日の自分だけの暮しの現実を小さく肯定するに一番便利ななにかの手がかりとなる観念に幸福というものの内容をゆだねて、それで簡単にかためてしまい勝ちである。世のなかの複雑な動きのあやから眼をはなさず、そのあやに織り込まれている自分の一生の意味を理解するところにいいつくせない面白さをも見出して生きて行こうとはせず、動的な現象事象から離れたどこ
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