とはどんなに文学を読むのだろうか、と。何故なら本当のいい文学の作品は、その作品の世界で決して筋を運んでいるばかりではなく、きっと、ある条件とのいきさつの間で人間がどんな風に生きたかという、その心と肉体との過程を描き出しているものである。偶然な街上のできごとで生じた人と人との間の波瀾がどう納ったかという話ではなくて、ある性格と性格との組み合わせとその背後にある社会の事情などから、どんな必然の緊迫した経過が生じて来たか、例えば「アンナ・カレーニナ」は、このことをはっきり誰にも分らせると思う。
この小説は一篇のまぎれない悲劇である。アンナの不幸を目にも心にもまざまざと描きつくした悲劇であるにかかわらず、私たちがそれを読んでいるときに受ける感動は美しくて、その震撼には不思議な甘美さがこめられている。この芸術の秘密は何だろう。すべてのすぐれた文学が、悲劇でさえも、その悲しみのうちに高鳴る一種微妙な美の感覚をつらぬかせていて、与えられるその感動で人が慰藉されるというのは、どういうことなのだろう。
芸術が、現実生活から生まれるものであって、しかも現実のひきうつしではないという本来の性質が思い浮べられる。芸術家は現実を見とおすことで、現実のあれこれに動かされつつなおそれに追いまくられず、それを人間の多種多様な生の姿として精神のうちに統率する力をもっている。そのような現実の只中に真直に立っている精神の力が、悲劇のうちにもそれが人間生活の真実に迫ったものであるところからの美と、何ともいえない感銘をとらえて再現して来るのである。
どんな人でも、たとえば「アンナ・カレーニナ」の世界に抵抗して、これは幸福をかいていないからいやだというようなことはしない、と思われる。アンナの悲しい生涯の最後のピリオドまでついて行くと思う。即ち一人の女の生の過程をともにたどるわけで、一番しまいに、ああと巻を閉じたとき、やがてまたもう一遍パラパラと頁をめくりかえさずにはいられない感動が心に鳴っているとき、アンナを通して印象された悲劇のなかにも輝く美の感じが、幸福と呼びならわされている感覚に通じる性質のものであることを感じとらないとすれば、随分残念なことだと思う。
文学は筋をよむものでもないはずといったわけは、ここのところにこそかかっている。文学のすぐれた作品こそ、悲劇の感動のうちにもなお美や慰めをこめている自身の生活の力で、私たちに幸福の最高のありようの典型を示している。人間生活のある場面では、低い形での幸福の外見が破壊されても、その過程の人間生活としての意味がはっきりそのひとの精神に統率されているときには、そこに一つの美としての幸福感が脈動していることもあり得ることを示しているのである。
幸福感というものの高い質は、主我的な飽満の感覚、満喫感と同じでないというのも面白い事実である。むしろ美の感覚を通じたものであることは、尽きぬ暗示をふくんでいると思う。美が固定した静的なものでなければならないという今日の若い女のひとはすくないであろう。美において動きと対照と破調と統一とを理解している心情が、幸福という言葉を、そのいきいきとして積極的なはずの美の感覚でとらえる力をもっていないとすれば、そこにはどういう日本の女の生活的な未熟さが語られているのであろう。[#地付き]〔一九四〇年八月〕
底本:「宮本百合子全集 第十四巻」新日本出版社
1979(昭和54)年7月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第九巻」河出書房
1952(昭和27)年8月発行
初出:「婦人画報」
1940(昭和15)年8月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年5月26日作成
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