行かなければならない幸福の鍵を――ノラは何も持たずに家を飛び出している。――私たちは飛び出すなら飛び出す、飛び出さないなら飛び出さないように――幸福というものを、本当のものにする鍵を持たなければならない。そういう感じをはっきりあれを見たことによって受けるのであります。そして、時代の違いのあるノラの問題だ、と理解なさっただろうと思います。決してわれわれの今日の問題であるというふうにはお感じにならなかっただろうと思います。
 ノラはああいうふうにした。しかし、私たちはこういうふうにもって行く。今日あれをみたとき、私たちの生活には、ノラの生活にはなかった自分たちを幸福にする鍵があるということをお考えになったと、おもうのであります。
 けれども、今日の私たちの生活は、なかなか、楽なものではないのであります。余程私たちは頭を使って、自分というものを考え、幸福になるように研究して、実現して行かなければならないのです。幸福というもののはっきりした観念と、その建設というものは、人間だけがもつ一つの力なのです。そういうことから考えていって、今日の私たちの生活をめぐる問題をよく見てみましょう。
 例えば、インフレーションというようなものは、戦争のお蔭で起った結果であります。軍事予算というものを、無法にどんどん出しましたから、それで、お金の値打ちが下って、物と金の釣合いがとれなくなって、物価は二十五倍に騰《あが》った。物価が騰ったから月給もあがったといって二十五倍になった月給を貰った人は一人もない。そのようにして、今度は、インフレーションからモラトリアムになった。ちょうど、瀕死の病人が、熱はだんだん低くなって来るし、脈の方は次第に数が殖えてきて、少々望みがなくなったので医者から親類に電報を打ちなさいと申し渡される。ちょうど今の日本の経済状態はそうなのです。財産税だけでは危くなって来て、なんとか処置をしなければならなくなって、そこで支払い停止のモラトリアムということをしまして、私たちは、小さな膏薬みたいなものを貰って、十円札に貼りつけて歩いております。あれだけの小さな証紙、あの悪い印刷の小さな膏薬みたいなような証紙を、なんともしようのない、病人であるいまの経済状態のところへ、ちょっと貼って、彌縫するように貼って持って歩いている。ところが、モラトリアムになってから、新聞の記事を御覧になってみなさんどうお考えになりましたか。最高五百円の月給、世帯主は一ヵ月生活費として三百円受取れ、あとは家族の頭数割で、一人百円ずつで、もし家族五人のところでしたら、一ヵ月の生活費として七百円、それに月給の五百円と合計月に千二百円取れるから今までの生活より余程いいということ、楽な生活が出来ると書いてありましたね。私、どうも迂闊なものですから、すっかりよろこんでしまったのです。そして後からよくよく考えてみたら、その七百円の生活費はどこから出てくるのかしらと思ったら、政府が呉れるのではなくて、みなさんの貯金から出すことなのですね。私、すっかり、糠よろこびしてしまいました。
 政府はこのモラトリアムをしなければ、日本の経済状態が潰れるとおもってやったのでしょうけれども、一般私たちの経済事情から申しますと、どなたのお家でも、相当にあった貯金なども使い果してしまっている。
 例えばいろいろな火災保険であるとか、戦時保険であるとか、また、退職手当というものも、大分使い果してしまっているのであります。別に私たちのところに、何万円もの金があって、それが自由になるなどという人は一般にはないわけです。
 モラトリアムの決定によって、五人家族を標準に、五百円生活をしろということに規準が置かれたのですが、この五人家族というのは、なぜこんなふうに標準をたてたかと申しますと、日本の一軒の家の子供の統計は、年々殖えておりますが、多いところもあるでしょうし、少ないところもあるので、まあ三人ならいいだろうということで、家族全部で五人、五百円で暮せ、ということになったのだそうです。そして、あとはみんな封鎖されてしまったわけですが、しかし、おじいさん、おばあさんの二人がいらっしゃる家庭では、この二人はなんで生きて行くのでしょう。おじいさんたちの生活資金はありませんからね、などという人がありますでしょうか、しかし、この五百円生活だと、二人はみ出ていることになる。おじいさん、おばあさんは何で生きて行くのでしょう。政府が決めた、生きて行けという総計だと、ずいぶんおかしな話になるのです。
 また、モラトリアムに伴って、いろいろな制限が行われることになりまして、女の月給というものは、男子の三分の一、二百円の月給として、政府は発表しました。これだと、つまり、男の三分の一で生きて行け、ということになりますが、しかし女だけの物
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