のであったろうか。歌集『几帳のかげ』に盛られた女の憤りはどういうものであったのであろうか。宮崎龍介の妻として納り、今日その日その日をどうやら外見上平穏に過しておられるようになってしまえば、愛のない性的交渉を強制される点では伝ネムの妻であった彼女の場合より比較にならぬ惨苦につき入れられている貧困な、無力無智な女の群に対し、「女には全く用のない」と云いすてても、それですむものなのであろうか。
 男に向って女から投げる爆弾にしろ、よかれあしかれ夫婦仲よく同じ軌道に生活している場合、個人の問題に切りちぢめてその良人などを対手とすれば、山川氏の繊手は元よりとり上げる爆弾を必要とさえしないであろう。私は往年山川女史が何かの論文で、現代の社会機構においてどのように婦人が大衆的抑圧を蒙っているかという事実をあげ、一般の男の気持の中にのこっている女に対する封建的な感情の歴史的根源をついておられたこともあった時代を思い出すのである。
 男性への爆弾という『文芸春秋』の課題を、山川氏が男を女からやっつけるという風にだけ理解されたところに興味津々たるものがある。男性への爆弾というとき、我々若きジェネレーション
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