帥山川均氏をはじめ、親類の男の誰彼が特殊な事情でそれぞれ女のする家のことをもよくするということで、すべての男性というものを気よくその中へ帰納してしまい、最後に到って飄逸たらんと試みられたものか茶気満々な文体で「たしかに女は家庭の女王である。さればこそ」「女王は女王らしく泰然として一家に君臨し、悠然として(主人とか子供とかいう家庭の人民階級に)奉仕されているのこそ身分柄定められた掟でもあり云々」と「繊手に爆弾をとりあげては見たものの」投げる対手はないことになって「時津風枝も鳴らさぬ平和主義」の主観的女権尊崇の栄光を讚していられる。
私が感想を刺戟されたのは、この文章で山川菊栄ともある婦人が、問題を個人的な自分を中心としての身辺観察の中にだけ畳みこんでみずから怪しまれない点であった。柳原※[#「火+華」、第3水準1−87−62]子氏の玉の井ハイキング記に連関してその文章が私の心に浮ぶのも、社会の現実を見る見かたに二人共通な個人的な、どちらかというと自足的な匂いが強くあるからであろうと思われる。
柳原※[#「火+華」、第3水準1−87−62]子氏は何のために伊藤伝右衛門の赤銅御殿をすてたのであったろうか。歌集『几帳のかげ』に盛られた女の憤りはどういうものであったのであろうか。宮崎龍介の妻として納り、今日その日その日をどうやら外見上平穏に過しておられるようになってしまえば、愛のない性的交渉を強制される点では伝ネムの妻であった彼女の場合より比較にならぬ惨苦につき入れられている貧困な、無力無智な女の群に対し、「女には全く用のない」と云いすてても、それですむものなのであろうか。
男に向って女から投げる爆弾にしろ、よかれあしかれ夫婦仲よく同じ軌道に生活している場合、個人の問題に切りちぢめてその良人などを対手とすれば、山川氏の繊手は元よりとり上げる爆弾を必要とさえしないであろう。私は往年山川女史が何かの論文で、現代の社会機構においてどのように婦人が大衆的抑圧を蒙っているかという事実をあげ、一般の男の気持の中にのこっている女に対する封建的な感情の歴史的根源をついておられたこともあった時代を思い出すのである。
男性への爆弾という『文芸春秋』の課題を、山川氏が男を女からやっつけるという風にだけ理解されたところに興味津々たるものがある。男性への爆弾というとき、我々若きジェネレーション
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