ろう。けれども、なおそれより私たちの心にひっかかって来るのは、やはり、今日作家が自分たちの小説の主人公にこういう風な一ひねりした老人をもって来る、その心理だと思う。
作家というものは一定の年齢になると、例えば「怒濤」の「わたし」のような人物をとおしてエロティシズムをも描きだしてみたくなるものなのだろう。以前には、北陸の魚と女性の青光るエロティシズムを正面から描いた室生犀星氏が、最近の「蝶」で、父親という一応熱気をさましたような立場から少女たちの身のそよぎを充分官能をもって再現しているように。
室生氏の場合は、作者の好みが多分に働いている。そういう好みが、文学のこととして含んでいる問題は別として、この作者はそういうとりあわせが好きなのだ。だが、丹羽氏はどうなのだろう。
今の時代は、小説が若々しい主人公たちを必要としていそうだのに、実際の作品では何となし老人が登場して来ているところには、考えさせられるものがある。火野氏が『中央公論』七月号に発表している「土鈴」は『改造』の「神話」よりずっとテーマとして高い複雑な人間交渉のモメントが捉えられているのだが、ここでも作者は息子の荘太郎は従
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