暮しは、現在の日本では、まだまだ封建的な伝習の中につながれている。その見とおしに向って、一定の希望をつなぎ、常識に順応し、自身をよくしてゆくこと、ひとに使われるもの、命令をされるもの、夜昼よく働いて主人の昼寝を安らかならしめるために、よい[#「よい」に傍点]者としての自分の前途を明るく眺めることは、はたして彼ら少年にとってたやすいことであろうか。
最近ソヴェトの若い労働者の作家、アヴデンコというひとが書いた小説「私は愛す」が翻訳されて、ナウカ社から発行された。
これも小説の技術からいえば、さまざま批評の余地がある、完成した様式をもっているとはいえない作品なのであるが、その中には、この「新しき塩」に描かれているものとは全く対蹠的な社会的事情――感化院の教師と少年らの関係の内容の緊密さ、愛情、教化の方法すべてを貫いて温く流れている社会人としての共同感情が、単純にそれゆえ一層感動的に描かれているのである。
主人公となっている労働者の息子サーニが、優秀な機関手となり、コムソモールとなる迄の生活は、浮浪児の一人として波瀾重畳であり、社会的な犯罪にさえも近づいた時期があった。国内戦時代のことで、そのような悪童的な放浪の道はたまたま赤軍の装甲列車にぶつかり、そこで汽鑵《かま》たき助手などやることがあったりした。そのサーニが、臓品分配のことから刃傷沙汰を起し、半殺しの目にあってシベリアの雪の中に倒れていたところを、その地元の「嘗て浮浪児たりし人々のコンムーナ」すなわち少年労働訓練所に救護された。サーニが到頭、自身を卓抜な青年労働者にたたき上げる迄の過程に描かれているその「白い大理石の家」の内での生活は、特に老パルチザンである指導者アントーヌィッチの洞察と生活の意義に対する目標の確固不抜性、人生に対する愛と評価との態度は作者の心に湧いている生きることのよろこびとともに鳴って描かれている。後篇の前半を占めるこの部分は地球の到るところで、分散させられながらよりよく生きようとして力をつくしているすべての人間の目に、希望とよろこびの涙を浮ばしめるのである。
観察力のすぐれた読者は、そして皮肉が人生に何事かを決すると思い違いをしている種類の人は、あるいはいうであろう。「新しき塩」が描かれている社会的背景、条件はソヴェトとは全く違う。不良児と浮浪児とはある点で違ったものであるし、まして
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