ランの『文学語録』という本を頂いた。はじめの方に散文と詩とのことが語られているところがある。アランに云わせると、散文は自己自身と他からの働きかけとの間の調整を求めるのを法則としていて、従って外的ないろいろな力に追いまわされもするものであるが、歌・詩は、自己の均衡の上に築かれていて自身の諸部分のあいだに諧和を求めるもの、従って歌は人間の救われている状況の建築を表現し、強く直立しているかたちを表現する、という風に見られている。
 面白いのは、私たち散文をもって全人間の生きている姿をとらえようと願っているものは、散文を、アランのようには考えていないことである。散文と詩とを、アランのようなポイントから外的なもの内的なものとしていない。唯受動的に自己自身と他からの働きかけの間の調整を求めるもの、ただ合図の叫びとして在るのではなく、散文は自己と外からのものとの間から生れた更に新しい一つの人生的な価値を、創作の過程、作品の現実のうちに帰服させつつ、それに拠りたのんでゆくものである。
 散文が、芸術の言葉として生かされるとき、もし人間の救われている状態を内包することの出来ないものなら、どうして散文でか
前へ 次へ
全3ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング