作品のよろこび
――創作メモ――
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)慰安《コンソレーション》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地付き]〔一九四〇年二月〕
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生粋の芸術的な作品が私たちに与える深い精神の慰安《コンソレーション》はどこから来るものなのだろうか。芸術作品の底からさして来る真の明るさというようなものは極めて複雑な光りであって、浅い形で云われる筋の楽天性だの、作家の気質ののびやかさなどにだけかかっているものではない。もっと奥のあるものだ。感動をとおして心に迫る慰安は、立派な悲劇をよんだとき、一層惻々と私たちの精神をゆすってよろこびの感覚にまでたかめるではないか。いい芸術品のふくんでいるこの音楽のようなコンソレーション・人間苦と悲しみとの裡から猶響いて来るこの集注と発展の諧調はどこから生れるのだろう。(筋の上ではハピイ・エンドにすることがはやる今日の多くの小説について、或る人はそこに現代の文学の明るさを見るが果してそうだろうか。私には、そこに感覚として納得されないものを感じている。)
この間、アランの『文学語録』という本を頂いた。はじめの方に散文と詩とのことが語られているところがある。アランに云わせると、散文は自己自身と他からの働きかけとの間の調整を求めるのを法則としていて、従って外的ないろいろな力に追いまわされもするものであるが、歌・詩は、自己の均衡の上に築かれていて自身の諸部分のあいだに諧和を求めるもの、従って歌は人間の救われている状況の建築を表現し、強く直立しているかたちを表現する、という風に見られている。
面白いのは、私たち散文をもって全人間の生きている姿をとらえようと願っているものは、散文を、アランのようには考えていないことである。散文と詩とを、アランのようなポイントから外的なもの内的なものとしていない。唯受動的に自己自身と他からの働きかけの間の調整を求めるもの、ただ合図の叫びとして在るのではなく、散文は自己と外からのものとの間から生れた更に新しい一つの人生的な価値を、創作の過程、作品の現実のうちに帰服させつつ、それに拠りたのんでゆくものである。
散文が、芸術の言葉として生かされるとき、もし人間の救われている状態を内包することの出来ないものなら、どうして散文でか
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