は、いつも何かの意味で作家の実感によりたっている。その範囲で、作家は作品を生きていると言える。けれども、人間性を自分の枠のなかからたたき出して、辛い旅をさせ、客観的に追いつめられるだけ追いつめて見て到達した地点へ、自分の生きかたの足場を刻みつけて進んでゆくという、アルプス登攀のような文学と生活との方法は、ざらにあるだろうか。
経験というものは、日本の文学伝統のなかで、消極的に扱われて来ていると思う。或いは日本風に変化させられた傾向での自然主義的に。経験は、人間生活における一つの問題提起として作家にとり上げられるというよりも、むしろそれは、その経験が終ったところで作品のテーマの展開も終ってしまう話として語られている傾きがつよくはないだろうか。すべての経験が経験されたあとに、わたしたちの精神にのこるものがある。それが、問題であるか、感銘であるかは別として。そののこったものが酵母となって、わたしたちの心情に働きかけ、そこで、経験のなかから、文学のテーマが浮き出て来る。経験を経験なりに辿るとしたら、それは題材のままで語っているということではなかろうか。芸術の制作という意味は、こういうところに
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