作家の経験
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
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(例)かん[#「かん」に傍点]でわかる表現でなく、
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今日、私たちの精神には、人間性の復活と芸術再興の欲求がつよくおこっている。日本の未来のために、それは重大な関係をもっているし、私たち日本人の一人一人が、人間として充実した自分をとりもどすためにも重大な問題である。
けれども、これまで十数年の間、自然な形で日本の文学活動は展開されなかった。文学的な独自性をもつ創作が発表されなかったとともに、文学理論の発展も阻害されつづけてきた。ちゃんとした小説も文芸評論もなかった。その中を、不具にされた日本の文学とその不具な文学をさえなお愛する人間らしい精神の人々が手さぐり足さぐりで、去年の八月十五日までを辿ってきていたのであった。
こういう惨澹たる日本の現実は、十何年かの昔、日本文学の発展途上に提起されていたいくつかの重要な課題について、その後今日まで、一度もまともにとりあげ話しあう折を与えずにきた。研究し、討議され、なっとくを深める機会を得ずにきている。日本のプロレタリア文学運動が兇暴な嵐に吹きちらされた一九三二年以来、当時、未熟なら未熟なりの誠実さで論じられていた諸課題が、討論されている最中であったその姿のままで、ちりぢりばらばらに今日文学のあちらこちらに存在している。文学における世界観の問題、主題の積極性の問題、社会主義リアリズムの問題などは、すべて以上のようななりゆきに置かれている。
民主日本への歴史的な転換は、当然文学にも新しい窓をひらいた。民主的な文学という欲求がある。しかし、今日のごく若い文学の働き手、または今日読者であるが未来は作家と期待される人々にとって、民主の文学といっても、なんとなしいきなりつき出された棒のような感じを与えるのではないだろうか。若い世代は、その人々の怠慢によって知らなかったのではなく、暴力によって現実から遮断され、学ぶことを奪われていた一時期をもっている。人生について、社会の歴史の動きについて知らされなかった時期は、文学についてもまた知らされなかった多くのことのある時期であったのだと思う。
いわば茫然として新しい文学という、その新しささえ明確にはつかめないような今日の文学の世界のところどころに、がんこに、屹立して、世界観その他の問題が脈絡なく突立っているようにも見えはしないだろうか。
去年から民主的な文学の翹望が語られ、人間性の再誕がよろこびをもっていわれはじめたとき、これらの文学の骨格には進転のための歯車とでもいうべき諸課題について、もっとこまかに、歴史的に話しだされるべきであったと思う。そういう努力がされていれば、民主的ということの文学における今日の現実が、もっとしっくり文学自身の内のこととして身についたであったろう。文学の上に、民主的とか民主主義とかいう字が、ただとりつけられたばかりのように理解すれば、文学はいつだって文学でいいのだ、という居直りも、その感情の根源に主観的な必然を主張しうる。
プロレタリア文学と新しき民主主義文学
今年のはじめ、新日本文学会が結成の大会をもった。そのとき、一人の有名な作家が立って発言した。今日、プロレタリア文学のための集団といわずに、なぜ民主主義文学という定義をするのであろうか。はっきり、プロレタリア文学、といってしまったらいいではないか、と。一種の皮肉をふくませたニュアンスでいわれた。
日本にプロレタリア文学運動が起り、それがしだいにまとまり整理されて世界的な動きの水準に接近したのは、一九二八年ころのことであった。プロレタリア文学は、その発生の本質において、そもそも既成のブルジョア文学のなかでの一流派ではなかった。その時分出現した新感覚派と称する流派と並んでブルジョア文学の伝統とその流転のはてに咲きいでた新種のはやりではなかった。文学のうまれる母胎としての社会の階層・階級を、勤労するより多数の人々の群のうちに見いだし、社会の発展の現実の推進力をそれらの勤労階級が掌握しているとおり、未来の文化発展も、そこに大きい決定的な可能として潜在していることを理解したのであった。世界のプロレタリア文学運動は、世界のブルジョア文化とその文学の創造能力の矛盾と限界を見いだして、人類史の発展的モメントとして現世紀に登場している勤労階級の生新な創造性を自覚したところに生れたのであった。
二八年ころ、日本の進歩的社会科学者は、まだその研究の集積において豊富であるとはいえなかった。日本では社会科学そのものが、プロレタリア文学の前駆的な運動とともにうちたてられたばかりの時で
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