現実そのものが歴史を語るのだという主張のように説明された。バルザックは王権主義者であったにもかかわらず、彼の作品は当時のフランス資本主義発展のくまなき鏡である、とマルクスもいっているというふうな説明が行われたのであった。
きょうもまた、この古き地点からそのままひきうつして世界観の問題や創作方法のことを語る若い人々がある。
プロレタリア文学の新しい民主主義文学との生けるつながりが明らかとなるにつれ、新しい民主主義がすでにその前脚をかけている社会主義への道が明らかとなった。わたしたちの今日の創作方法として、いきなり社会主義的リアリズムだけをとりたてることは、たとえていえば、やがて摘める葡萄の房ばかりを話すようなものだと思える。その房に届くまでに脚たつがいるのか踏台がいるのか、なにかの過程がいる。新しい民主主義の全延長における背景的部分、半封建的なものとのたたかいの部分に照応する活かされかたが当然いると思う。それはなんとまとめて表現されるべきだろうか。現実を発展の過程において理解し、描き、かぎりない発展の可能をもつ民主主義の前途に期待する意味で、私たちは進歩的なリアリズムの創作方法に、十分の多様性と多産な成果とを求めるのである。
芸術の根蔕《こんたい》はリアリズムである。どんな幻想的創作でさえも、それが幻想としてありうるためには幻想のリアリティーを欠くことは不可能である。人間というものが本格的にリアリストであり、芸術の根蔕がリアリズムであるからには、作家として現実を真にその活き動く関係のままに把握しうる眼としての世界観、史的唯物論に立つ現実のみかたと、そこからのリアリズムを求めるのである。
現実を、その動的関係の中で把握しては、詩としての美が失われるのだと主張する人がある。そういうものだろうか? ほんとうにそう思うといえるのだろうか? 一九四五年の春、世界をどよもした叙事詩は、その人にとって美でなかったとすれば愕くべきことである。少くとも一人の作家たるわたしは、四五年の四月、五月において、現世紀の主題が、いかにその積極において捕えられたかということについて、腹から諒解した。十数年昔から、わかったようでわからなかった文学における主題の積極性の問題は、女として妻としての生きかたからいくらかずつわかってきていたが、四五年の五月、それは新世紀の勝利として理解されたのであった。[#地付き]〔一九四七年一月〕
底本:「宮本百合子全集 第十三巻」新日本出版社
1979(昭和54)年11月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十一巻」河出書房
1952(昭和27)年5月発行
初出:「展望」
1947(昭和22)年1月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年4月23日作成
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