的天才の通力だけによる所産でないことが明らかになり、人類の歴史に数多い文学の傑作は、その当時の歴史の計らざる鏡としてますます愛すべきことを学んだ。一つの小説を、最もゆたかな奥行きと、人間生活の最も綜合的な角度で味う方法を会得したのであった。
文学の端初は、世界のあらゆる民族の生活において歌謡であった。原始の人類たちは、彼らのよろこび、悲しみ、勇躍にあたって歌い、踊った。文字はあとから、歌われた歌を記録した。だが、その歌よりもさきに、原始の祖先たちは、狩猟をし、獣の皮をはぎ、火をおこし、女は針に似た道具でその獣の皮や粗布を縫い合わせた。酋長を囲んで相談し、収穫と生産とについて部族のしきたりと定めにしたがい、習慣をもって生と死の現象を扱った。定めは、種々の場合に変革をうけ、そこには苛酷な制裁や、意外の寛大があった。集団して生きる部族の政治は、ひとかたまりに生きてゆくやりかた、としてはじまって、やがて階級分化を行った人の集団と集団間のいきさつとなっていった。生きてゆくやりかた、の根源には、その集団の定着した地域の自然的条件が重大に関係した。その意味で、生産の現実事情が、集団間の関係としての政治をきめたし、歌うこころもちの波の高低も、おのずから、その社会の生きるやりかたによって、ニュアンスをちがえたことは疑えない。人間社会では、自覚されるされないにかかわらず、客観の事実として、そういうふうに生産と政治が、文学に先行した。そして現在そうであるし、これからもその関係は変らない。
過去のプロレタリア文学の理論は、そこまで社会の客観的現実を見る眼を開いた。いわばその眼は見開かれたっぱなしで、やがて太古エジプトの護符の「眼」のように呪文的にもち扱われた。文学は政治のあとに発生するものであるけれども、固有の狭い意味での政治と文学とは、機能のまったくちがう人間精神の二つの作業であるから、一つが一つに従属するというものではないはずである。社会にあって文学が政治とともに経済の上部構造であるにしても、芸術のように旺盛な人間の創造的表現が、人々の心に訴え、語りかける以上、それがまた立ちかえって政治に影響しないということはありえないことである。発生の順を社会科学の角度からみれば、後次的であろうとも、文学の肉体に即して感じれば、政治は、文学の体の中のことであるとしか感じられない。社会そのものが、文学の肉体感でいえば、自分のなかにあるのだから。そして、私たち一人一人が個人として、どんな形かで、今日の社会の動きかた、またその動かしかたにかかわっているのであるから。「文学は政治に従属する」といわれる場合、私たちの感情に、なにか文学に身をよせてそれをかばう作用がおこりやすい。これまでも、この定義にたいしては少からぬ誤解と反撥がもたれた。そして今日、やはり常識の中にしっくりとうけいれられずにいる。
文学との関係で政治がいわれる場合、その政治は、けっして文学の利用者また悪用者としての政治を意味しない。この社会に対立して存在している階級と階級との間の諸経緯ならびにそのたたかいをさしている。一人の人といえども、この社会では階級に属さない生きものでありえない。人間が階級社会に生活するからには、その文学も当然階級性をもたないわけにはゆかない。「文学は政治に従属する」ということをわたしたちの言葉で表現すれば、文学の階級性という平明な、わかりやすい事実になるのである。
社会が単純な時代、私たちの実証性の対象は、感覚で確かめられる世界の実在であった。今日、わたしたちが日々の悲喜の源泉を辿ろうとするとき、それは呪わしいばかりに複雑である。わが心に銘じる悲しみが深きにつれて、文学はその悲しみを追求することによって、単なる悲しみから立ち上った人間精神の美を発見し、美を感じ生みだすことによって、個体の経験を社会の富に転化して、そこから成長しきるのである。が、一つの悲しみ、一つのよろこび、あるいは憧憬を、独自であって普遍な精神的収穫としてゆくために、わたしたちの眼は、錯雑する現実にくい入って、交錯した諸関係、その影響しあう利害、心理の明暗を抉出したいと欲する。芸術は、ますます生きつつあることを感じて生きんとするおさえがたい欲望であると思う。その欲望につき動かされて、わが心、ひとの心、それらの心を生む社会の密林にわけ入るのだが、今日の私たちは、少くとも、自分の諸経験を、社会現象の一つとして感じうるだけの能力は備えている。どうしてこうも辛苦であろう、とつきつめた思いは私たちに、どうかしてそのわけを知りたく思わせる。
そのわけはじつにどっさりある。いくつかのわけはすぐ見えるところにあるが、そういう事情の湧いてくるまたそのわけは、私たちの目前に直接姿をあらわしていない。だが、小さい一つの現象の
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