切り角は、キラリと鋭く覆いがたく、その現象の本質をひらめかせている。
私たちは、直感にひかれ、情につきつめて、現象のギリギリのからくりまでを発見しなくては、芸術の欲望がしずめられないのである。
世界観は、眼という表現でいわれてきた、そのものの科学的あらわしかたであると思う。この社会とそこに起伏する人生にたいしてどういう眼をもって生きているか、そのことである。このことが、つまりは往来いっぱいにころがっている「小説の種」から、作家にその人の題材というものを選択させる。その作家の人生に通じるテーマを見いだしたとき、その作家の全存在を集中する精気のこった活動としてモティーヴがはっきり把えられ、労作がはじまるのであると思う。
世界観は、鋭く美しい活きた社会とその歴史にたいする眼として紹介されなかった。日本の主情的な文学伝統にとっては、よその言葉のような言葉で提出されたっぱなしであった。
作家こそ、生活と創作の経験を通して、わが身、わが作品でこなした世界観とはどういうものであるかを語りうるはずであった。けれども、十数年前の作家、それらの諸課題に本気でかかわりあった作家たちは経験において若く、自分たちにとってさえもそれは新しい文学の自覚であった。こなされるには時間がいった。かさなる苦労がいった。少くとも、一人の作家としての私自身にとってはそうなのであった。
今年のはじめソヴェト同盟からシーモノフ、ゴルバートフその他四人ほどの作家が来た。そのとき、いろいろの作家がこれらのお客をとりかこんで文学を中心とする座談会をもった。そして、特別な関心をもって、現在ソヴェト同盟に行われている芸術の創作方法はどういうものであるか、と日本の作家から質問を出されている。シーモノフは、ていねいに、現在ソヴェト同盟の芸術創作方法は社会主義的リアリズムであると答えた。それにつけ加えて、社会主義的リアリズムというのは、一定のグループが自説を押しつける強制的なものではないし、それぞれの国がそれぞれの社会の現実に即して、人民が人民のための文学をつくってゆくことを意味するという註釈をくりかえした。質問者は、シーモノフがゆったりした様子で坐りながら自明なこととして話すこれらの説明に満足したらしかった。
傍でそれらの問答をきいていてさまざまの感想にうたれた。ソヴェトの若い文学の世代、ピオニェールからコムソモ
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