文学の肉体感でいえば、自分のなかにあるのだから。そして、私たち一人一人が個人として、どんな形かで、今日の社会の動きかた、またその動かしかたにかかわっているのであるから。「文学は政治に従属する」といわれる場合、私たちの感情に、なにか文学に身をよせてそれをかばう作用がおこりやすい。これまでも、この定義にたいしては少からぬ誤解と反撥がもたれた。そして今日、やはり常識の中にしっくりとうけいれられずにいる。
文学との関係で政治がいわれる場合、その政治は、けっして文学の利用者また悪用者としての政治を意味しない。この社会に対立して存在している階級と階級との間の諸経緯ならびにそのたたかいをさしている。一人の人といえども、この社会では階級に属さない生きものでありえない。人間が階級社会に生活するからには、その文学も当然階級性をもたないわけにはゆかない。「文学は政治に従属する」ということをわたしたちの言葉で表現すれば、文学の階級性という平明な、わかりやすい事実になるのである。
社会が単純な時代、私たちの実証性の対象は、感覚で確かめられる世界の実在であった。今日、わたしたちが日々の悲喜の源泉を辿ろうとするとき、それは呪わしいばかりに複雑である。わが心に銘じる悲しみが深きにつれて、文学はその悲しみを追求することによって、単なる悲しみから立ち上った人間精神の美を発見し、美を感じ生みだすことによって、個体の経験を社会の富に転化して、そこから成長しきるのである。が、一つの悲しみ、一つのよろこび、あるいは憧憬を、独自であって普遍な精神的収穫としてゆくために、わたしたちの眼は、錯雑する現実にくい入って、交錯した諸関係、その影響しあう利害、心理の明暗を抉出したいと欲する。芸術は、ますます生きつつあることを感じて生きんとするおさえがたい欲望であると思う。その欲望につき動かされて、わが心、ひとの心、それらの心を生む社会の密林にわけ入るのだが、今日の私たちは、少くとも、自分の諸経験を、社会現象の一つとして感じうるだけの能力は備えている。どうしてこうも辛苦であろう、とつきつめた思いは私たちに、どうかしてそのわけを知りたく思わせる。
そのわけはじつにどっさりある。いくつかのわけはすぐ見えるところにあるが、そういう事情の湧いてくるまたそのわけは、私たちの目前に直接姿をあらわしていない。だが、小さい一つの現象の
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