ないような今日の文学の世界のところどころに、がんこに、屹立して、世界観その他の問題が脈絡なく突立っているようにも見えはしないだろうか。
 去年から民主的な文学の翹望が語られ、人間性の再誕がよろこびをもっていわれはじめたとき、これらの文学の骨格には進転のための歯車とでもいうべき諸課題について、もっとこまかに、歴史的に話しだされるべきであったと思う。そういう努力がされていれば、民主的ということの文学における今日の現実が、もっとしっくり文学自身の内のこととして身についたであったろう。文学の上に、民主的とか民主主義とかいう字が、ただとりつけられたばかりのように理解すれば、文学はいつだって文学でいいのだ、という居直りも、その感情の根源に主観的な必然を主張しうる。

        プロレタリア文学と新しき民主主義文学

 今年のはじめ、新日本文学会が結成の大会をもった。そのとき、一人の有名な作家が立って発言した。今日、プロレタリア文学のための集団といわずに、なぜ民主主義文学という定義をするのであろうか。はっきり、プロレタリア文学、といってしまったらいいではないか、と。一種の皮肉をふくませたニュアンスでいわれた。
 日本にプロレタリア文学運動が起り、それがしだいにまとまり整理されて世界的な動きの水準に接近したのは、一九二八年ころのことであった。プロレタリア文学は、その発生の本質において、そもそも既成のブルジョア文学のなかでの一流派ではなかった。その時分出現した新感覚派と称する流派と並んでブルジョア文学の伝統とその流転のはてに咲きいでた新種のはやりではなかった。文学のうまれる母胎としての社会の階層・階級を、勤労するより多数の人々の群のうちに見いだし、社会の発展の現実の推進力をそれらの勤労階級が掌握しているとおり、未来の文化発展も、そこに大きい決定的な可能として潜在していることを理解したのであった。世界のプロレタリア文学運動は、世界のブルジョア文化とその文学の創造能力の矛盾と限界を見いだして、人類史の発展的モメントとして現世紀に登場している勤労階級の生新な創造性を自覚したところに生れたのであった。
 二八年ころ、日本の進歩的社会科学者は、まだその研究の集積において豊富であるとはいえなかった。日本では社会科学そのものが、プロレタリア文学の前駆的な運動とともにうちたてられたばかりの時で
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