れて、主観的には科学のための科学に邁進していると思いながら、客観的には当時の社会の支配勢力に役立ちつつあった。ダアウィンの学説が、十九世紀イギリス資本主義興隆の科学的裏づけとしてつかわれた如くに。
科学者の社会的基調
昨今の社会情勢は推移して、もはや科学性のそれ以上の発展と支配力の利害とは一致し得なくなって来た。科学に対する統制は科学の発展を阻害して目前の功利主義へひきとめる形としてあらわれて来ている。多くの科学者が、科学の立場からその強力な摩擦に苦しみ、そのような統制に反対の意志を示しているのは当然である。このような統制は本質的には、一般的に人間の知性の否定、或は一方的な抑圧を意味するのである。文化の相関的一翼として文学においてもこの現象は今日あきらかに現れている。それは後にふれることとして、最近石原純氏が、所謂統制に反対の立場において書かれている一二の文章の中で、疑問に感じたことがある。
石原氏は、科学が軍事的功利主義で余り掣肘されることの害悪を主張しておられる。その点は誰しも会得しやすいのである。しかし、石原氏がナチの科学政策とソ連の科学政策とを質的に同一なものとして否定しておられるのは、何だか腑に落ちない。常識人の目に映るナチは、病的な民族主義の強調などによって、自身の文化、科学をも貧弱化せざるを得ない矛盾を露出している。石原氏がその学説の解説者として自身を示したアインシュタインのナチから受けた迫害などを実際に見て、果して石原氏の感想はどうであろう。アインシュタイン自身が自分の心持からレーニングラードのアカデミーで働くのなどはいやだというのと、ソ連がもし希望ならばよろこんで、この名誉ある人類的スケールの科学者にふさわしい待遇をした、というのとは、二つの別な態度なのではあるまいか。くどく説明を要しないナチとは違う本質が語られているのではあるまいか。
石原氏は『改造』九月号の「科学者と発明家」という文章の中でも、くりかえし上にのべた観点を主張しておられる。そして、今日の機構がしからしめている「特許」というものの性質が反科学的であることにふれ、「幸にして、純粋の科学の世界には、このような資本主義の弊害はさほど及ぼして来ていない」云々と、科学者が発明家に比べて資本主義的害悪から超然としていられることを語っておられる。けれども、社会悪は金銭的
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